夏の雨
■This story is written under the inspiration of 『夏の雨』by Westerners











「もう一度、だね。」
「あぁ、二人で………な。」




生きていれば、会えないことはないさ、と笑ったあの顔がなかったら、
きっとこの雨に耐えられなかった。


学校が終わると、毎日のように上がっていた屋上だが、今では久しぶりだった。
昨夜から今朝まで降り残った雨の所為で、コンクリートの凹みに、
まだ水たまりができている。


梅雨どきの、まだ怪しい空も、春を忘れたような無情な冷気も、
季節が確かに巡りゆくことを、否応なしに知らしめる。


望美は、鉄のフェンスに背をもたせ掛けて、水たまりに映る雲を見ていた。



そう。




確か、こんな色に変わって行ったのだった。




◇◇◇




「これが神子の、ほんとうの願いだから。」


白龍は、心痛を隠し切れない朔に、ゆっくりと言い聞かせた。
将臣が、いつか自ら願う時まで、もう二度と開かぬ時空が、
今開かれようとしている。


その意味を、朔には解りすぎるほど解るから、
愛し合う二人を分かつ空を、笑って見上げることなどできなかったのだ。


「あなた達の絆は固いのね。」


そう言った瞳が揺れていた。
固いからこそ、離れたままでいることを選択することさえ、
互いに認め合うこともあるのだと、朔には解っているから。



冬だというのに、眩しく熱いほどの光が、雲間から差し込んだ。
ありがとう、とか、元気でね、とか。
思い付くだけの別れの言葉を連ねながら、
ゆっくりと螺旋の空間に飲み込まれた。



そこは、暑くも寒くもない空間だった。
ただ、晴れ渡る空の色が身体を包み、それは近付いても近付いても、やはり同じだけ遠くなりゆく。



どこまでも続くかに思えた。



そこに、突如肩を打つ、冷たい水の感触。
灰色の絵の具を少しずつ混ぜて行くように、まわりの色が変わってゆく。



空が、繋がるのだと思った。



足下からずっとずっと下方に碧い世界が沈んで、不意に恐ろしくなった。
迷いを捨てねば、この狭間に閉じ込められるのだと、本能で知る。
将臣の世界と、望美の世界が、あと僅かで完全に隔てられる。



もう、戻れない。
将臣が、帰らぬことを選んでも、もうこの声を、耳に届けることはできないのだ。



それなら。



あなたの言葉だけ、連れてゆく。
生きて、ゆくから。



時空を掴んで、あなたと紡いでゆけるなら。




そう信じて、望美はひたすら、細く白い手を伸ばした。


「ひっっ………っあぁっ……!!」


ときのしっぽは激しい渦で、全ての方位からかかる重力に思わず吐き気を催した。
もう駄目かと思ったのと、渡り廊下を歩く自分に気付いたのは同時だった。
吐き気も嘘のように治まって、何もかもが『以前』に戻っている。
前方から、数人と連れ立って譲が歩いてくるのも、そうだった。
ただ、望美の隣に誰もいない、そのことだけが違っていた。


ホッとした表情を向けて立ち止まった譲と、
二言三言会話を交わして、互いの無事を伝え合った。



あれから――――。



片時も、忘れることなんてなかった。
将臣が、この空のずっと遠くで生きていること。
ここから見えるあの浜辺で、昔のはなしをする瞳。



そろそろ帰るか、と言われて沈黙して、不意に奪われた唇の感触。
少しだけ抱き締められた、あの匂いも。



そこまで思い出して、気付いてしまった。



将臣が、思い出になっている――――。



考えてもなかった。
あの日々が、特別だったなんて。



信じている、などと豪語しても、
将臣を思い出に変えてしまったのは、他でもなく望美自身。


「やだ。……離れるなんてやだよ。」


水溜まりに、ひとつ、ひとつと涙が落ちて、雲がゆらゆら波打った。
そして、また、雨が降ってくる
あの時のように、肩を、水が濡らして行く。
水の上を流れる雲を、捕まえられずに、こんなに不安になる。


「一人じゃ……ダメなのにぃ……。」


と、一人言葉にしたから、返事があるなんて思わなかったのに。


「ああ、そうだろうな。」


水たまりに、暗い影が差して。
肩にかかる雨のかわりに、ぱつぱつと、ナイロンを弾く音がして。
顔を上げた。


「ただいま、って言えばいいか?」


傘をさしかける将臣の顔も、声も、ちゃんと見えて、聞こえている。
それなのに、涙が溢れて止まらない。


「あー……泣かせるつもりじゃなかったんだけどな。ちと、待たせすぎたか?」


喋らないで欲しかった。
将臣の声だと認識すればする程、気丈に張った防波堤が、
これほどにもろく崩れてゆくのに。


「ごめんな……。」


そう言って、泣きそうな顔をしながら、そっと、そっと、口づけを落とす。
肩に触れることさえも、少し、躊躇するように。
何度か空で手のひらを泳がせて、そして、頭上を傘がはなれて、



また、あめが、ふる。



確かめるようにして、強く、背を掻き抱かれていた。



もう、二度と。
離れない。



夏の雨の中を、今度は二人で、歩いてゆける。



繋がった空を、見つめて思う。
見守って―――。



互いがここで、共に生きている、たったそれだけのことを。



そして、確かめて。
もう二度と、戻れないことを。



繋がるこの空の、何処へも二人を離さないと。



確かめて―――。



次の日から、嘘みたいな夏がきた。
二人が掴んだ時空が、今、ようやく動き出すのを決めたように。