この人は、暗がりで書き物をする。


無論、電灯は棒状のパルックが天井に設置されているし、
スイッチ一つで快適な研究室になるというのにのに、
デスクの右端、手元が陰になるように置いた簡素な照明だけで、
ノートパソコンに向かって、レポートらしきものを書き続けている。


「望美さん、もう、帰ったらどうですか?」
「……。」


それは、何度目かの同じ質問だ。尋ねるだけで、キーボードから顔を上げようとしないのも同じ。


うん、そんなだから、
私は動けないでいるんですけど。


きなりの、丸みの無いウレタンのソファの背にしがみつくようにしながら、腕に片頬を預けて
もうどれくらいこうしているか、知っているはずなのにね、
このひとは。


「弁慶さん。」


どうにか返事をさせる術はないものかと、今日の授業中も私は、
意味のない質問をリストアップしてばかりいた。


「研究室のある高校って珍しいって、他の実習の先生が言ってましたよ?」
「……。」
「そのパソコンのリンゴは、かじられてないのもあるんですか?」
「……。」


いや、正直少し疲れきている。
私が手を替え品を替え、こうして頑張った放課後は、一度や二度ではない。


そのとき、カン…と、高い音が窓を打った。
「あ、ひょう。」


珍しいことがあるな、と思って、私は思わずソファから立ち上がって、
窓辺へと走りよった。
夜になっても、カーテンを引かない人でよかったのかもしれない。


大きな大きな氷の粒が、漆黒の闇から落ちてくる。かり、かりと、硝子が音を立てる。
ぼおっと窓に映る、デスクの明かりの上に、そっと手のひらを重ねてみた。


ねぇそこで、あとどれくらい粘るつもりですか。



ううん、て言うか、私が、あとどれくらい粘れるかな。
このひょうが、雨に変わるまでに、あなたは私を一度でも見てくれるのかな。
窓ガラスに映った自分の顔は、黒くて、のっぺりしていて、どうしてこんなに可愛くない。


「……もう、いっかな。」


私は振り返って、じゃあ、と声をかけたのはデスクの弁慶さんに、だったつもりが。
目の前に飛び込んで来たのは、悪戯な瞳。
身体を少し折って、窓ガラスに両手をついて、
―――ということは


逃げ場無し。


「何処へ、行くんですか?」
「そ、の……。寒くなりそうだから、もう、帰」


制服のスカートの間に、絹の感触と、人肌の温度を感じて身体がこわばる。
首筋に唇を近づけて、その傍で紅く紅く染まった耳に囁かれた言葉に、
胸の動悸がついて行かない。


「ここから抜け出せるのなら、どうぞ。」


その声に、切なさが少しだけ、含まれている気がするんだけど、
それもきっと計算のうちなんだろう。


私は別に彼女じゃない。
弁慶さんだって、教育実習でたまたまやってきた科学の先生。正確には、そのタマゴ。


タマゴどころじゃない。
こんな気持ちを教えるなんて。
実習の期間なんてたったひと月で終わってしまうのに。
きっと、会えなくなるこの人のことを、どうして私は好きになってく。


ひょうが、まだかりかりいってる。晴れた夜空が降らす、いくつもの星みたいに。
暖色の淡い明かりが、わたしたちをぼんやり照らして窓ガラスに映しているのだろう。
それを、弁慶さんは見てる。


「どうして、毎日ここへ?」

答えてしまっていいのかな。
丸くて大きな二重の瞳に捉えられて、こんなに竦んでしまうなんて思わなかった。
伝えてしまっていいのかな。
弁慶さんが作った腕のケージが、こんなにも強固なものだとは思わなかった。
ぎゅっとつかんで押しのけようとしても、びくともしない。

それどころか、どんどんそのケージは狭く狭く。
でも、その腕は、私を包むことはしない。手のひらはガラスにくっつけたまま。
ねえ、その手のひらで、その指で、



お願い。



「弁慶さんなら……いいと思って。」


ふふ、と、吐息が耳たぶをくすぐった。


「いけないひとですね。」


刹那、私の背は引き寄せられた。
きちんと着ていたはずの制服を、まるで一重の衣みたいに、
簡単に足下に落としてゆくのに、抵抗できずにされるままになっていること。
いや、じゃないことは解っている。だって。
その腕を、髪の間に通された指を、今日までずっと、私は、、、。


「本当は、待っていたんです。こう見えて、僕は結構ずるい。」


言おうとした台詞は、弁慶さんに先を越されてしまった。
弁慶さんは、サテンの黒いカッターシャツを脱いで、私の肩にふわりとかけた。
冷たくないシャツを素肌に感じることの気恥ずかしさも、この人が教えてくれる。
タマゴどころじゃない、ほんとに。


初めて見た。男の人が、髪をほどくところ。
そう言ったら、弁慶さんの眉が少しだけ上がって、丸い目がもっと丸くなった。


「ふふふ、今夜は良いレポートが書けそうです。」
「べ、弁慶さんっっ?!」
「はい、静かに」


と、私の唇に人差し指を当てて、いい子にしてくださいなんて言われたら、
もうどうしようもなくなってしまうじゃない。


だけど。
せめてカーテンを引いて、と懇願したのに、この人は何食わぬ顔でこう言った。


「星を数えながらのうたた寝も、良いものですよ。」


弁慶さんの長い金髪は、緩く巻いて柔らかで、とってもとっても暖かかった。






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