◆Special Thanx for... ひ様





僕が昼間いない間は、彼女に家を守って欲しいと言い張る僕に、
家事は得意でない、と言い張る彼女がいました。
望美さんが、僕が、ゆくゆくは互いを伴侶にしたいと告白しあったときのことです。


その時まで、この街―――京には、僕が個人的に所有する家はありませんでした。
そういう女性が将来現れるとは、正直思ってはいなかったし、
濃い色の衣に、身を隠すようにして生きるには、家も、伴侶も、必要のないもの。


そんなふうに、長年思ってきました。
けれど、彼女に会って、僕はとうとう恋をして、
自分の甲斐性で一軒の家を持つという、ささやかで、当たり前の夢が出来てしまった訳です。


景時の恩情で、戦のあとも梶原邸に居候し続けていた僕たちは、
図面を広げながらしばしば未来を思い描いた。


「こちらが玄関、こちらに進むと廚で」


大きければ大きいほどいいと言う訳ではないけれど、
大きいですねと言われてやや得意気に語る僕と、


「……こんなにいい台所を作ってもらっても、私、八割使いこなせないと思うんですよ」


申し訳なさそうに、表情を曇らせる彼女。
梶原邸に比べたら、そう立派な作りではありません。
僕の身の丈に合うだけの設備と、ネコの額よりは大きな土間が、ささやかに広がっているだけの図面でした。
遠慮がちな質なのかな、と微笑ましく見つめていると、彼女は柳な眉根に少しの皺をつくりました。


「それに、随分広いですよね。ちゃんと片付けられるかな。お掃除も心配だし」
「調度はそれほどありませんよ」
「調度はないかもしれないけど、弁慶さん、すごい爆弾抱えてるじゃないですか」
「爆弾、ですか……?」


聞いてみれば、彼女が言う爆弾とは、僕の蔵書や薬や、それに使う植物やその他諸々のことでした。
僕は自分でも片付けが得意な方ではないから、


「広い家にしたら、いっぱいになるまで詰め込むんじゃないかなぁって、思うんですけど」


という彼女の言を、黙って認めるしかありませんでした。
それに僕にとっては驚いたことに、彼女は女性ながらに働きに出たがっていて、
働きながらこなすには荷が重い広さだ、とも言ったのです。


僕は、自分で言うのもなんですが、女性にそれほど威圧的な態度を取る方ではありません。
できるだけ、愛する人の願いは叶えてあげたい、という質です。
けれど、働きに出るというそれだけは、黙ってうんとは言えなかった。


だって、それでは


仕事を終えて帰った僕に、おかえりを言ってくれるひとがいない日もあるのでないかと。
いいえ、一人で暮らしているならいいんです。
他でもなく、彼女を伴侶として暮らすのに、それでは、


少なくとも僕は耐えられない。


言うと、彼女は困った顔をしたくらいで、そして少し頬を赤らめたくらいで、
喧嘩になることはなかったけれど、文机を挟んであちらとこちら、
僕たちは言葉を切って様々な図面を取り上げては睨み、いよいよ真剣に悩むことになりました。


その時、お茶をお持ちしました、と、御簾の影から声が掛かりました。


「あ、はい! どうぞ」


御簾が上がり、しずしずと、飲み物やつまむ菓子などを机に並べるのは梶原邸に下働きに来ている少女です。
このような少女少年、そして壮年に至るまで、ここにはたくさんの使用人がいました。
だから、こういうのは見慣れた風景です。


が、僕ははっとしていました。
同じく、何かに気がついたような顔をして、少女を見つめている望美さんに、
気付いてしまったからです。


暫しのあと、ふたりっきりに戻ってから、
彼女はやはり、言いました。


「誰か、お手伝いに来て貰ったらいいんですよね!」
「……そ、そうですね」


なんて、一旦は愛想笑いしたけれど、やっぱりダメだと思って、


「いいえ、それは認められません」


と、きっぱり言いきりました。
お茶に咽せるほど驚いた彼女は、まんまるになった目を、僕と合わせました。
その時の彼女には、よく理解できなかったかもしれないけれど、


長く、外套を着て暮らした僕が、本当に心から欲しかったものは、
広い家でも、使用人をたくさん置けるような甲斐性でもありません。


欲しかったのは言うなれば、家ではなくて『一つ屋根の下』という、
言葉にすると幾分抽象的なもので
その実、とても簡単な。



僕は、ずっと、この手に届く家族が欲しかった。



結局、彼女が折れて、
家事は上手くはなくても、少しだけ頑張ることで何とかなるくらいの広さの家を建てました。


僕が長年思い描いていたよりは、随分とこぢんまりしたものになりました。






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二十歳より、三十路に近くなっていた。
ある休日、僕は庭先に出て、冬の、カラリと晴れた空を見ている。
身を切るような寒さ、というよりは、背筋がぴんとのびるくらいの、過ごしやすい冬を予感させる、
そんな師走の入りだった。


「うん、こんなところでしょう」


洗濯物はヒラヒラ揺れて、カラになった竹籠が壮観に見える。
僕も、上手くなったものだと思いつつ、母屋に向かって踵を返す。


洗濯物は、目下僕のものだけ。
使用人を置かなかったから、彼女がいない間は、当然僕がすることになる。
仕事は常通りある中で、食事の支度から朝晩の掃除、荷物の受け取りまでが僕の役目になってから、
そろそろ三月にもなるだろうか、いつしか季節は一つ、まわっていた。


確かに楽ではないけれど、項垂れている訳でない。
この、束の間の独り身は、新しく家族が増える為の、一回目の布石だから。
朝起きると、彼女の身を思い、眠る前には、明日こそは、と期待しながら、
僕は着々と、家事の手腕を上げていた。


僕と同じように、彼女にも家族がなかった。
だから、半年ほど前、出産の為の宿下がりを、と申し入れてきたのは梶原邸で、
朔殿は相変わらず気がつく女人であるなぁと、感服した。


僕は薬師で、一応簡単な医術の心得もあるから、
いざとなったらこの手で取り上げて、などと思わない訳でもなかったけれど、
それだけは、と彼女から丁重に辞退を受けていたところで、まさしく木も見て森も見る梶原邸である。


説明はそれくらいにして、洗濯を終えた僕は、次の仕事として縁側に金魚鉢を持ってきた。
縁が青い硝子で波のように細工された鉢で、おねだり通り見つけるのにとても苦労した舶来の品。
熊野の春祭で、彼女がモナカの網で掬った一匹と、店主がおこぼれにくれたもう一匹は、
あれから随分大きくなって、金魚と言うより小さめの鯉くらいの大きさになっている。


「……こんなかんじかな」


僕が思案しているのはその抱え方のことで、
来るべき『僕のややを抱く瞬間』の為の予行練習を、この金魚鉢でもしている。
外套をまるめたり、座布団を二つに折ったり、
とにかく、暇ができたなら気付けば何かを胸に抱えていて、
いま、外套は着ていて座布団は手に届く範囲にないから、金魚鉢がその代わりになっている、そんな具合。


僕は、太陽の光に透かすようにして、鉢を高く持ち上げた。
そう遠くない未来、ややがここへ、帰って来たら、こういう機会も出てくるはず、
というのもあるけれど、


こんなふうに日和が良ければ、魚も陽が恋しいはずで、
それでも仕事がある日には、鉢を置いて縁側を開け放って出てくる訳にもいかない。


久方ぶりの、凛とした空気に触れようとするのか、赤い魚がぴちと跳ねた。
頬に、ひとつぶの、冷たい雫がかかる。
反射的に目を閉じた。


「……悪戯ですね」


まるで、彼女のよう。
思い出すときは、こんなふうにいつも突然なのだ。
笑っていたかと思えば泣いて、ないたかと思うともう笑い、



これで、終のわかれと思えば、雪の幻影の如くに現れたときの
これ以上なく、僕を驚かせたときの、君のようで



僕は、些か強く、抱き込んだのだろう、
鉢は腕の中で僅かに滑り、危うく取り落としそうになって、
そのちからが、硝子にするにしてはそぐわない強さであることを知る。
ネコの額ほどの庭先が、俄に広く、隈もなきほどに見えて来る。


「ああ、そうだ」


今なら彼女の、図面にひかれた真四角の家が、そんなにもひろく見えたこころがわかる。
未だ踏みも見ぬ、ぽっかりと広がった未来の奥で、
例えば僕が、君が、ふたりでもうけることになろう、新しい命の、



来るところさえみえないことの



その、不安にも似た気持ちのことを
僕はいま、一人この縁側で、遅ればせながらわかりました。


金魚鉢は、もっと、優しく抱かなければ、あわや、取り落として水泡となる。


「望美さん」


あれから、もう、三月です。


どうしたんだろう、
忍耐強いことには定評がある僕だけれど
文の遣り取りだけでは、足りないくらい会いたすぎて
この午後、らしくもなく痺れを切らせたような顔で、梶原の門を叩こうか、


なんて、思ったときだった。


おもてで馬が嘶き、蹄を止める。
からからと、桐の車輪が軋む音。


僕ははっと顔を上げた。


男も、女も、様々なひとの声がする、門前から、
彼女の声だけを、僕の鼓膜は選別する。


お世話になりました、というようなことを言ってる。
上がって行かれては、というようなことも言ってる。


―――ように、まっすぐな風に乗ってその声は、庭先の僕の耳に届いた。


俄に慌ただしくなった我がこころは、辛うじて縁先に金魚鉢を置くことだけが出来て、
あとはひたすらに、廊を駈けた。


駈けるとは大袈裟にもほどがある、短い短い廊下なのだけれど
それに僕は、駈けるなどという行動は、殆どしなくなって久しいのだけれど


息急き、足を縺れさせた。
往き慣れた我が家だからできる、
ただ、足を前へ繰るだけで、いきたいところへ、思ったところへ、
この身体は出てゆくことができる。


こんなにも、会いたくて仕方なかったことが、思い出したような感覚で明らかになり、
浮かぶのは彼女の顔、不思議なことに、ややのことを、そのとき幾つか思ったろうか。


僕の、薄い額の裏がわで思い浮かべるのは、
三月前にわかれたままの、彼女の顔ばかり。
少しだけ不安げに、けれども、決めた強さを滲ませた、



綺麗な綺麗な彼女ばかり。



掃除が上手くなった所為で、幾度か足袋を滑らせたりしながら土間を降り、
僕らしくもない音を立てて、玄関の戸をいっぱいに開いた。


「―――弁慶さん」
「す、みません」


こんな顔は、見せたことがなかったのかもしれない。
驚かせてしまったかな。
僕の目は、次に自然とややを探して、幾ばくもしないうちに彼女の胸で、静かに静かに眠る、
確かに僕と彼女の、命のちいさな続きを見た。


涙が出るほど安堵して、背を半分に折って膝まで折れてしまった僕を
まるでひとごとのように、見つめるもう一人の僕がいる。
思い出すものの中に、父親というものがあまりない僕が
あまりに急に、けれど確実にいま、親である。


「おかえりなさい」
「ただいま、です」


と、彼女は三月前と、何も変わらないふうに笑い、そして、
堪えきれず、外套の端を引いてくることで目元を隠した僕のことは、
そっと、気付かぬ振りをした。









まるで小春のような縁側です。
太陽の高い昼の間、この家を守ってくれるひとが、やっと帰って来た。


(そう、やはりこうでなければ)


赤い魚も悠々と、小さな鉢を泳ぎまわり、陽光は背びれに反射する。
僕は、洗濯物の揺れるのが正面に見える特等席で、
黒い衣をよくよく隅々まで使って、膝の間に彼女を抱き込んでいる。


「そんなにしなくても、寒くないですよ」
「ええ、でも、もう少しだけ」


望美さんは望美さんで、ややをその胸に抱いていて、
ほら、いま笑った、とか、一つひとつ言って、僕の目を見上げる。


僕が洗濯物を干していたのはほんの先程のこと、それから気温が急に上昇しただなんて考えにくいけれど
ほんとうに、あたたかだ。
決してなくさぬよう抱え込んだふたりの大切な家族は、
とてもあたたかく、まるくて優しい匂いがする。


ややを抱く彼女は、未だぎこちない手つきに見えたのに、
僕がすると、もっと酷くなってしまうことを、僕は門から廊を歩く間に知ってしまい、
まだ、少しふがいない気持ちが残っている。


「そうそう、そんなもんです」


彼女の腕に返した途端、むずかっていたややがすとんと落ち着きを取り戻したのも然り。
練習の甲斐がないと言うか、寧ろ、金魚鉢に申し訳ない気さえした。
これからは目を凝らして、抱き方を観察しないと。


「それは、望美さんが作ったんですか?」


僕は、産着を指して言う。
僕の外套と、そっくり相似の色違いで、小さなややをまるっとつつんでいる、
真っ白な生地は木綿だろうか。
彼女はこくんと頷いた。


「大事にしてくれ過ぎて、じつは産まれるまでとても退屈だったんです」
「だからと言って、望美さんがお裁縫」
「何が言いたいのか、今のでだいたいわかりました」
「そうかな。僕の真意は、随分上手になりましたね、なんだけどな」


僕の言葉に偽りはないのに、彼女はこそばゆそうに、苦笑する。
自分だけ褒められるのは居心地が悪いのか、
僕が磨いた床だとか、干した洗濯物だとかを褒めた。


なるほど、確かに、こそばゆいかも知れません。


三月ぶりに抱きしめた望美さんは、思い描いていたよりも、細くて小さかった。
たったそれくらい独り身でいたくらいで、僕は彼女の感触に、やや誤差を生じていた。
それは僕が寂しかった所為で、脳裏で彼女をどんどん膨らませた結果なのか、
誤差ではなくて正しくて、ややに注いだぶんがそぎ落ちている所為なのか、


どちらにしてもとても愛しい。


いつまで、ここで、こうしていようか。
少しも飽きなくて、困ったななんて思っている僕でした。


「そうだ! ねぇ、名前は何にしますか?」
「それは、急ぎなんですか?」
「帰ったら、一緒に決めようって、ずっと考えていたから」
「それは、嬉しいけれど。名は急いで決めずとも、ややが教えてくれるものではないかな」


したり顔に見えたかも知れない。
思想ぶったように聞こえたかも知れない。


正直に白状するならば、
その実僕には、そのときは未だ、すぐに名前が浮かぶほど父になった実感がなかっただけでした。


そして、意外にも同意してくれた望美さんと、ややと、
それからの幾日かを、ヒマさえあれば縁側でひとつかたまりになって過ごす間には、
急がなくとも僕たちも、少しずつ家族になってゆけるのではないかと思っていました。


「弁慶さん」


彼女は、そんな僕にもうひとつ提案しました。
もっと大きな家にしようと言うのです。
数年前、何と言ってそれを嫌がったかよく覚えているから、俄に信じがたいことでした。
今も僕は薬師で、蔵書は膨らむ一方で、それでも家が小さいから、
手がやっと回るくらいで済んでいるというのに。


「自信がついたって言うにはちょっと早いんですけど、かくれんぼも駈けっこも、
 三人で一緒にできるほうがいいかなって」
「君は、すぐに三十路の僕を思い切り走らせようと言うのですか?」
「うん、思い切り」


それから、声をひとつ小さくして、僕の胸に埋め込むように唇を当てた。


「がんばりますから」
「僕の方こそ、頑張ります」


それは、すべての意味で。
僕は、顔を上げてと言いました。
ややの寝息を確かめながら、盗むように口づけたとき
彼女の長い髪が揺れて、僕の漆黒の衣を滑った。



背筋の伸びるような風が、ネコの額を吹き渡る。






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熱帯夜続編・ややが生まれた弁望夫婦でリクしていただきました!
そ、その、ややより望美ちゃんにメロメロな弁慶さんになってますねすみません……
ややにはこれから、おもうさまメロメロになる、その途中という感じでしょうか^^
ED後の弁慶さんが、すこぶる心中穏やかだったらいいなぁと思いつつ、書いててめちゃくちゃ幸せでした。
ややがもうちょっと大きくなったら、望美ちゃんの取り合いする弁慶さんだったらいいとか思ってます真顔!
ひ様、リクエストありがとうございました!

2009.12.04 ロココ千代田 拝