土曜とはいえ、学期末試験に学内選抜と、大きなイベントが控えていた。
貪欲に、どちらも手に入れようとしたかなでは、昼間は練習室で目いっぱい練習して、
日暮れとともに図書室に移動、しかる後に帰宅、とこういう一日を過ごしてきたところだ。
―――かなでにも最後の夏が来た。
つまり、恋をしてそろそろ一年が経とうとしていた。
理論上300日以上が経過したわけだが、果たして早かったろうか、長かったろうか。
正直に表現するなら、長いか短いかで語るのは間違っている。
うまくいっていれば一日が弾むようで、次に会う日がすぐにやってくるように感じたし、
電話でうっかりけんかしてしまったときは、次のメールが来るか来ないか、待っている時間は30分だって永遠だった。
そんなに気になるならこっちから打てばいいのに、
と思いながら、もやもやを吹っ切ったり、開き直ったりするまでに
何度も携帯を開いては閉じ、また開いて、進まないデジタルの数字に唇を尖らせたりした。
心を決めてアドレスをたぐり出すと、大体そのタイミングで新のほうから接触があり
電話ならどんな声で出ようかとか、
メールなら、最初の一文を読み出すのに、冷や汗握るくらい緊張したり。
いろいろとパターンを重ねたけれど、
その日のうちに仲直りできなかったことは一度もない。
思い返せば、それらも含めて楽しかった。その一言に尽きる。
「おつかれー」
大体そんな出だしでかかってくる電話は、きょうもやっぱりそんなだった。
「かなでちゃん、いま着替えたりしてる?」
「……へ?」
「あ、別に変な想像してないよ…! 着替えてなかったらカーテン開けて空見てほしいなーって」
「空?」
「きょう七夕でしょ、そっちのほうは」
「そっちのほう」と新は言うが、そしてかなでは実に忘れたまま一日を終えそうになっていたが、
カレンダーによれば確かに7月7日。全国的にだいたい七夕として認識されているはずの日であった。
が、仙台住まいの新にとって、きょうは「そっちのほう」、つまり新暦の七夕であると、
あくまでそういう立ち位置を崩さない。
「そっか、きょうだったね!」
かなでは、パタパタと床を駆け、急ぎ窓辺へ寄る。
窓枠に沿わせるようにして机を置いているので、鍵を下ろすのにやや背伸びる必要があるのが難儀だが、
スペースシェアリングの学生寮にあって、これくらいの不自由は仕方がない。
制服の、長くはない丈のスカートで、棚板に膝を引っ掛けてのぼり、
木枠の窓を押し開ける。
「なんかすっげーガタガタいってない?」
「いろいろあるのです」
「超かわいい」
返った言葉に照れつつも、かなでは言われたように空を見た。
舞い上がっているのもあって、星がいっぱいだ、と見たままの感想を受話器へ伝えるのが精一杯である。
「うん。空の上じゃ今頃一年に一回のデートかな〜とか考えてたら、かなでちゃんの声が聞きたくなってさ。
雨降らなくて良かったよね〜、ホントに」
男女別に統計を取ると、男の子の方がロマンチックらしいという話を聞いたことがあるが、
新とかなでの場合でもその統計は当てはまる気がした。
かなでは、受話器を当てた耳たぶを一人赤らめる。
「どれがあまのがわ?」
新はそう尋ねた。
さすがの長身でも、首を思い切り上にして、手でもかざして探しているだろうか。
そういう声だ。
「うーん、私もそれっぽいかたまりは見えないなぁ」
「ていうかまず織姫ってどれ? っていうレベル」
「ほんとはなんていうんだっけ」
「こと座のベガが織姫でー、彦星がわし座の明るい星。ふたりそろって夏の大三角ってやつ」
「そうなると邪魔者は誰? っていうのが気になる」
「はくちょうだったと思うよ」
かわいい鳥なのに邪魔者だなんて、かわいそうな言い方をしてしまった。
かなではやや反省し、大三角を夜空に探す。
都会の空でも、細かい星ならたくさんあり、どう繋いでも三角にできるけれど、
大三角と呼べそうなはっきりとしたのを選ぶとなると、
部屋から見える、窓枠の四角をくりぬいただけの星空には限界がある。
「ちょっと外出てみる」
かなでは言って、机をひょ、と飛び降りた。
「えっ、外ってなに玄関回るの?」
「……うん?」
普通は玄関から外へ出るのではないだろうかと言った。
「マジか、超予定外」
「なにが?」
「じゃぁさ、外出たら続き話そ! ちょっと切るね」
「え、ちょっと新くん」
電話が切れたのは、名前を呼んだその途中だった。
志半ばにして規則的な電子音を聞いていると、ひどく置いて行かれた気分だ。
憤慨はんぶん、恋しさはんぶん。
「……外に出たら続き、って言ったよね」
電話を握って立ち尽くしていても、時間は流れていくばかりだ。
会話をたぐり寄せるなら、走って外に出ないと。
猫の額ほどの廊下を、できるだけ疾く駆けて、外気に触れたならその手でもって、
できるだけ早くこの距離を、繋げなければならない。
たかが電話
されど電話
大袈裟な使命感だとひとは言うかもしれないが、
自分でもやや思わないでもないが、
それでも、この手のひらの100gにも足りない重みが、
いまのかなでの全てだ。
「外に出たら続き!」
二度目に言って、玄関ホールの段差を両足で踏み切って、重い扉に体当たる。
重厚な建築の、厚い扉は両開き。
開けるには、体重の全てが必要だ。
毎朝毎夕そうするように、二の腕を全面に押し当てて、凭れ掛かるようにして、
向こうへ向こうへベクトルを追加する。
「……ん!」
そのようにして、開けた隙間を滑り出た。
勢いのままに駆け出て、開けた視界で捉えなければならないものは
部屋で探しあぐねた夏の大三角。
高く高く夜空へ目を上げる、そのつもりであったが、
弧にした視線はその途上で、ぴたりと捉えられてしまった。
「どうして―――」
捉えたものは星でない、瞬間にそれは、わかったのだが。
駆けることを前提に飛び出した足はすぐには止めることができなくて、
彼の胸につんのめるようにして、ふわりとつかまえられてしまう。
「―――ひこぼし」
わし座のそれが羽衣をたたみ、
遠い空から舞うように、かなでの胸に降りたのだろうか。
「オレの織姫だ」
その声の出どころへ、
これではまるで飛び込んだみたいで
思考のまるで追いつかないかなでの、爪先は既に浮いており
高く高く彼の目線の、更に上から見下ろすそこに、
新の、一等星みたいな青い目がある。
「ほんとに、新くん?」
「なんでニセモノ? かなでちゃんはほんものなのに」
超予想外と言ったのは、確か新のほうだったが
かなでのほうがよほどそう言いたい。
その間にも、ひしひしと腰にくい込ませる腕は、
それでも思う、本当に、彼のものなのだろうか。
「だってどうしてここにいるの」
「うーん、晴れたから?」
と、そんなにも、
何でもない顔をして
いつもそこにいるようにして笑うものだから、
できれば笑顔で応えたいのに
おねがい、早くも泣かせないでください
新が口付けたところはもしかすると
唇より涙のほうが先だったかもしれない。
久しぶりのキスを、しょっぱいものにしてしまった後悔を
どう伝えたらいいだろうかと、かなでは、地に着かない足で考える。
「もう一回」
「……ん」
強請られるままに応える間に、拭われる唇はしとどに濡れて、
柔らかな舌先を絡めてゆけば、眉間にくっきりと浮かんだ切なさまで薄まるようだ。
探した星は見えなくても
あまのがわはみつからなくても
たとえこの一夜が過ぎても
欲しいものがたったひとつ、まばゆくみつめてくれるなら
引き換えにする想いをいますべて
唇に乗せて奏でたい
いま、本当にほんとうに、そう思う。
◇
「ここに隠れてたんだよ」
新がそう言ってゆび指したのは、
かなでの部屋の窓枠の直下、やや芝生の伸びすぎた裏庭の端である。
部活が終わったその足で新幹線に乗ったらしい。
だから楽器も持って来ていて、大きなケースを窓枠の向こうへ置いたところだ。
「見つからないように、ちっちゃくちっちゃくなってたんだから」
「全然気付かなかった」
「みたいだね」
頃合を見て立ち上がって、驚かそうと思っていたと言った。
かなでが外に出ると言うので、慌てて電話を切って、追って、
俊足の中の俊足を使って先回りせねばならなかったと言った。
2012年7月7日、記念すべき第1回目の七夕作戦は見事破られたのだと言った。
「破られたっていうか、むしろ大成功だと思うなぁ」
かなでは言って腰を下ろし、口惜しそうな新の手首を引いて座らせた。
じゃらじゃらと巻き付けたアクセサリーは、前に会った時よりもまたひとつ増えている。
「いっこ欲しい」
「いーよ。どれがいい?」
「どれでもいいの?」
「どれでもいいよ」
とりどりの手首に触れながら、かなでは物色を始め、
新は夜空に三角を探す。
だが、7月初頭の宵の口、それら星群は未だヨコハマを覆う天球の途上。
目を凝らしても、首をどれほど傾けても、やや足りない昇り口にある。
「8月の七夕にはよく見えるんだけどなー」
「ん?」
「うん、夏の大三角のはなし」
途切れていた会話のことを、かなではようやく思い出す。
そもそもそのために外へ出たはずだったことも、同時にようやく思い出す。
「だから、8月は仙台おいでよ。一緒に見よ」
その時もこんなふうに、晴れた夜空であるといい。
短冊に書くなら、それが一番相応しい。
願わくばつり下げる笹を用意しておくべきだったろう。
「その前にもう一度横浜に来てもらわないと。今年はリベンジなんでしょ?」
「毎日超ー練習してるから手ごわいよ〜、今年の至誠館!」
「タダでは勝たせてもらえないかー」
「わ、すっげー強気だし」
「古豪だからって容赦しないし」
「そんなこといわれたらマジ腕鳴りそうだし」
そして、肩に回った新の腕が、去年より幾らも重くなった気がして
それは、増えたアクセサリーのぶんを、軽く越える気がして
ひとまわり厚くなった気がする肩に頭を乗せていくのには、幾らかの言い訳を挟まねばならない。
かなでは、鼻先をくっつけるようにして新を上目遣いにした。
「私にとっては最後の夏だし」
「情けに訴えるとか卑怯だし」
「やっぱり通用しなかったか」
「わかっててやってるとかかわいすぎる」
戦意を喪失させるには、互いに愛しすぎている、そう思う。
柔らな髪に、どちらからともなく触れ合って、
近くなった瞳へ、そして唇へ、交互に絡ませあう視線がくすぐったい。
「かなでちゃん」
「はい」
「したい」
「ここじゃやだ」
「じゃぁキスは?」
「したい」
いつ腕を引かれても、立ち上がれるようにこころの準備を整えて、
かなでは新と、しっかりしっかり目を合わせた。
瞼が閉じるより先に盗まれた、最初のキスから随分と熱い。
「いまのが、『天の川渡ったよ』のキス」
言われて、言葉を探しながらやり返す。
ぴたりとくっつければ、とても手放せる気がしない甘みから、ほんの1ミリだけの隙間を作って、
次をせがむようにして性急に紡いだ。
「私のは『会いたかった』のキス」
「『大好き』のキス」
「…っ!」
ほんとうは、私も、と返したかったのである。
けれども、唇をまるごと捉える新のキスは、語尾まですっぽりと包まれてしまうようで、
ただただ飲まれることしかできない。
その先を求めるなら、窓枠の向こうのカーテンを引いて、星影に隠れるのがベストだけれど、
いまは、腰を上げることまで惜しかった。
飽きるまで一連かわしあった後には、夏服を皺だらけにしてしまうのでないかと
重々わかっていながら
回り始めた夜空の直下、指先のすべてで、
さらりとぬくい薄衣を握りしめる。
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