オムライスなら上手に巻ける。
初めてそれをお弁当にして持って行ったときに、
「すっげーっ」て言われて、だから二度と失敗できなくなったというのもあるかもしれない。
―――けれどもこれは
既に冷めてしんなりしているフレンチフライの山から一本をとって、
もう一回だけ味見をしてみようと思うのだ。
もしかしたら、冷めたらおいしいのかもしれないし
だったらお弁当にしたなら大っ成功! ってことになるじゃない?
だが、結果は惨敗だった。
揚げたてでダメだったものが、冷めて最高になるわけがない。
しってる。
そんなの最初からほんとはしってた。
「よーしやりなおす!」
沈みそうな心は上昇しゆく気温に乗せて
新たなジャガイモをつかみ取る。
デンプン抜きが大事だと、携帯サイトで調べたので、シンクに浸しておいたのだ。
まな板の中央に転がらぬよう置いて、エプロンで濡れ手を拭う。
おねがい今度こそ、上手にできますように
祈るように、おでこに合掌を当てて目をつむる。
何故鼻先でなくおでこなのか。
それは、そこに覚えているからだ。
ある日あまりにも突然、私のおでこのファーストキスは、新くんに奪われてしまった。
恋人じゃないからおでことか、
向こうは勘弁したかしらないが、
こちらにも勘弁してもらえるなんて、ほんとうに思っているのだろうか。
キスはキスではないのか!
とそのように、
当時私は、びっくりマークがつくくらいに憤っていた。
酸欠のサカナみたいになって、ぱくぱくと、言葉にならない驚きを、
何とか伝えようとしている私に、気付かないのか見ないフリしたのか、
ごはん食べて帰ろうと言った彼は、私より先に颯爽と歩き始めてしまい
長い脚でストライドで、人混みをざっざか進んでく。
“まだうんって言ってない!”
“なにー? 聞こえないー”
“……っ、んもうー!”
こぢんまりした私は、ピッチな早足で追い掛けたけど、
彼の背が高いから、無数の頭の中でひとつ抜きん出るから、
だから見失わなかっただけで
そう、今から考えれば、本当に憤慨したなら、まっすぐ帰ることも出来たのだ。
先に歩き始めたのは、その選択肢をくれたのか。
ただの、偶然か。
「……新くんのばか」
あれから日にちは数えるほど、お風呂に入っても顔を洗っても、
眠っても、消えない。
“ここのフレンチフライが最っ高なんだよね〜”
って、ファーストフードで新くんは、向かいでぽかんとしている私のぶんまで、
いつのまにか半分くらい持ってってた。
なにも気にしてないように見えて、なんだか悔しくて、
せめて私は、あのフレンチフライを再現して、
あのとき言えなかった、大事な話の続きをしたい。
そう思って、前日ジャガイモを買い込んで今朝は早起きをした。
けれども、わからないのです
彼が好きだと言ったフレンチフライが、いったいどんな味だったのか
塩加減はどのくらいか、カリッとタイプなのかもちもちタイプなのか
ねぇ全然、私は覚えてないのです
覚えているのは、彼がおでこに残していった、
なんだかやらかいもののこと
そればかり。
あとは花火の音も、残像も
いくつも携帯に残っているのだが。
あの日、コンクールとは少し違う、いちばんのドキドキを感じながら過ごしたはずの、
向かい合わせの彼のこと、交わした会話、空気の匂い
その周辺のひとつひとつが、返すがえす、思い出せない。
不思議なことも、あるものだ。
どうか、思い出させてくださいと、
おでこに神経を集中させて、すぱんとポテトをふたつに切った。
◇
まだ眠いけど起きるのは、会いたい子がいるからで。
それでも、練習してるとこをつかまえるにはちょっと早すぎるんだけど、
彼女はたまに早起きして、お弁当を作ることがあるのを知ってる。
着替えるより先に、つめたい水で顔を洗って、気合いを入れたその足で、階段室を駆け下りる。
その間に、ちょびっと残ってた眠気なんか、どっか飛んでっちゃうんだよね。
自分でも、現金なもんだって思う。
ただ好きな子ができただけで
おはようって、真っ先に言いたいって、聞きたいって、
それだけで、オレはこうにもなれる。
最後の数段をまとめて飛び下りると、
キッチンへ踏み入れる前からいい匂いがしてたから、
いるいる、ってそれは、わかってて
ヒョ、とのぞくと、エプロンのリボンを後ろでかわいく結んだ彼女が、
長い箸を鍋みたいのに入れて掻き回してるとこだった。
揚げ物だっていうのは音でわかって、
それだといきなりうしろからぎゅっとかするのは危険だよねと自警しておく。
これは、結構大事なひと呼吸だって、最近覚えた。
見境ないとこあるの、わかってないわけじゃないから。
出来るだけ偶然です的に振る舞いながら、頭を低くして入り口をくぐる。
「かーなーでーちゃん!」
「えっ!」
「? なんかびっくり?」
「う、ううんなんでもない。ボンジーア」
「ふうん。うんbom dia」
髪をくるんと翻して、彼女はすぐにコンロに向きなおった。
何か空気読めなのかなとか思いながら冷蔵庫を開けた。
パック入りのオレンジジュースが幾つか入っている。
神南の東金さんのと間違わないようにしないといけない。
「シトラスなんとかは違うからー、確か〜、うんたぶんこっち」
パックを持った肘で扉を閉めた。
グラス棚から一個とって、なみなみと満たしながら彼女の隣、
シンクに腰掛けて一口飲んで、伺ってみる。
かなでちゃんはお箸の先をじっと見て、やっぱり困った顔をしていた。
(こっち見る余裕もないのかな)
あんまり真剣だから、ちょっと悪戯心が湧いた。
もう一口飲んで、彼女の空いた方の手へ、グラスを突き出してみた。
「はいっ、かなでちゃんもー」
「ありがと」
油を見たまま、それはいわゆる生返事で、反射みたいなものだったんだと思う。
しっかり飲んでからしばらくして、ぱっとオレを振り向いて、目をまるくまるくした。
ほっぺたがみるみるあかくなる。
「な、な、な……っ!」
握ったままのグラスはオレがとって、
底だまりになったのを飲み干した。
「ふふ。「間接キス」。って?」
「〜〜〜新くん!」
「作戦成功!」
かなでちゃんはちょっと怒ってるけど、ともあれ元気出たみたいだしいいじゃんってことで、
グラスはシンクに浸しておく。
まな板の傍には、出来上がってるのが盛りつけてある。
「あれ、フレンチフライ?」
「あ!」
「すっげーうまそー!」
早朝の空腹に持って来いとばかりに手を伸ばしたら、彼女が小さくはたいた。
「Ai! ッた〜!」
「だめっ! 新くんはだめ!」
「えーなんでぇ? 間接キスしたし?」
「それもあるっ! けどこれはお昼のなんですー! っていうか失敗作だし」
最後のほうが聞こえなかったから聞き返したけど、
かなでちゃんは頑として教えてはくれなかった。
コンロの向こうがわに、お皿は移動されてしまった。
たかがフレンチフライだけど、些細なことではあるかもしれないけど、
けど、なんか、しゅんとする。
彼女の言った、「新くんは」ダメっていう、
じゃぁ他のひとならいいっていう意味なのか、わかんないけど、
なんでオレだけ? って考えてる。
寝癖直してくれば良かった
髪にくしゃ、と手を入れて、
どうしても肩が落ちてしまう。
「……新くん」
「……はいー?」
「これならいいよ」
「うん?」
かなでちゃんは、ミニトマトを持っていた。
親指と人差し指で緑のとこをつまんで、オレの口許に近づけてくる。
あれ、これって
えっ? って、思わない?
「ん、トマト嫌いだっけ?」
「じゃないない!」
「じゃ、はい」
唇で挟んだまるい感触が、なんだろう、すごく嬉しくて
緑のとこをかなでちゃんがぷつんと離してくれるのが、前歯にビリって伝わって
落ち込んでたのに、もうこんなに幸せだなんて
返すがえすも、オレって超ー単純だ。
「かなでちゃんの作ったのが食べたいなー」
「トマトもお弁当にいれるよ」
「農家のひとがつくったやつじゃん」
「感謝しないと」
「そーだけどっ!」
照れ隠しとか、そういうの、オレが使うことになるとか
それまで一回も考えた事なかった。
「浮いてきた浮いてきた!」
かなでちゃんはようやく楽しそうだ。
きつね色になったフレンチフライを、長いお箸でつまみ上げて、
こっち向いて笑う彼女が、オレはすごくすごく、好きなんだってわかった。
早起きはナントカの得って、アリだよねと
いま、本当に本当に、そう思う。
◇
かなでは、揚がったフレンチフライを取り上げる。
新はシンクを降りて、ペーパーを敷いた新しい皿を、かなでの手元へ近づけた。
ひとつ、ふたつ、さくさくといい調子である。
「ねーねーまだダメ?」
新は味見のことを言っている。
湯気の立つ好物を目の前にして、さながらお預けをくらった大型犬だ。
それでも隙を見てつまみ上げようとするのだったが、
「だめっ!」
かなではよく見ている。
「も〜、なんでそんなにダメなのさー」
「私が先なの」
「うん? ネンコウジョレツ?」
「あは!」
かなでは思わず吹き出したが、すぐに真顔に戻した。
「………ではありません」
火を止めた彼女が真剣な表情で棚から持ち出したものは岩塩である。
木製のミルに入ったそれをキリキリとやって、砕いて使うタイプだ。
かなではフレンチフライの頂上で構えると、始める前に新に念を押した。
「ちゃんと持っててね」
「De boa!」
「よぅし。こんどこそおいしくなりますように!」
「―――」
今度こそということは、と、新は、コンロの向こうの冷めたほうの皿を見やる。
かなでが、「新くんは」ダメだと言ったそのわけが、うぬぼれでないのならば、
そういうことならば、俄然サポートはがんばらないといけない。
という気持ちで、しっかりと両手に力を入れる。
キリキリキリと、いい音が朝のキッチンに響く。
砕かれた甘い塩は、フレンチフライへ優しく降って、
新は時折反動を付け、皿を浮かせてはポテトの上下を入れ替える。
なかなか息が合っているではないか、というのは、
ふたりともが密かに感じあったことである。
「ストップかなでちゃん!」
「っ!」
かなでは、捻りかけていた手をぴたんと止めた。
新が皿を片手に持ち直して取り上げた一本は、
カリッとしたタイプに揚がっている。
「これくらいだと思うよ〜、たぶん」
「―――そ、そうかな」
かなでは、それでも一抹心配そうだ。
新が先に口にしたらどうしよう、というのもあるが、
なにしろかなでは、ほぼ手探り状態でそれを仕上げた。
新が好きなのになっているか、それは、先に味見をしたところで未知数には違いないのである。
「んじゃぁ、かなでちゃんからー」
「ん」
今度は新がかなでの口へ持っていく。
が、かなでには照れている余裕がなかった。
はぐ、と素直に一端を噛む。
「!」
残りのぶぶんをさくさくと人差し指で押し込みながら、かなではうんうんと首をタテに振る。
咀嚼して飲み込むと、もう一本を抜き取るように取り上げた。
「Viva! 良かったね! じゃぁオレもいい?」
もちろんだとかなでは皿を指差した。
たくさんあるのだ。とてもお弁当には詰め切れない。
けれども、新が口にしたのは、皿に盛られたどのフレンチフライでもなかった。
かなでが新しい一本を含んだのと、それはほぼ同時、
かなでとは反対側の端っこから、新はうんと背を折って、同じのに噛み付いたのである。
「……っん?!」
「ん」
至近距離で合う目は、どちらもひどくまるかったが、
かなでのは繁く瞬き、新はそれを、始終見逃さぬよう、しっかりしっかり見つめる。
かなでがひと噛みも出来ぬ間に、新はふたつみっつさくさくと進めて、
前歯でふつと切ったのは、かなでが大きく後ずさる、ほんの直前であったのだ。
「すっごいうま! 最上級!」
「っあ、あ、新くん…ッ!」
「って、あ〜、怒ってる?」
ああそのとおりである、と言うよりも先に、
皿は新の手を離れてテーブルへ滑り、かなでは火になって追い掛けた。
なんて逃げ足の速い、とかなでは思っていたが、
けれども、本気の俊足でないこともまた、双方がわかっていた。
だから、そのうち新の背は、かなでの両腕に捉えられる。
出ようと思えばいくらでも、出口をくぐって出ることが出来たはずの彼を、
半分ダイブで止めたのである。
いや、正確にはかなでは、新の腰にしがみついた蝉のようであったのだが。
ぱふ、と顔を、埋められさえする、高い高い背中だった。
「いー匂いする?」
かなではそれには答えずに、何度か頭を押し当てて抗議した。
心の底からの抗議だが、部屋着に埋め込む声は、いくらもくぐもってしまう。
「こ、こんどこそキスされるかと思ったんだから!」
「うん」
新にはすこしも響かないらしいから、もっともっと声を強めないとと、そう思うのに、
まわした手をひとまわり大きい手のひらで、
まるく包み込まれてしまうと、その気持ちが挫けてしまう。
その代わりと言っては何だが、そのときかなでが、強くつよく、思ったことがある。
新くんはずるい
いつもいつも、私の気持ちがあとまわし
そのぶんが、声に力をもたせるだろうか。
「こないだは勝手におでこにしちゃうし!」
「うん」
「ものすっごいびっくりしたんだからぁ…!」
「うん、ごめん」
頭突きをしたらこちらが痛い、だから出来ないだけなのだ。
と、かなでは固い背に、ひたすら額を埋める。
新がふと反転したのは、それからどれくらい経った頃だったろう。
どちらかと言うと気が長いか、浅く込み上げていたかなでの呼吸が、
落ちつく頃合を見計らったかのようだ。
冷蔵庫がボゥと音を立てるところで、ぎゅうと両手を繋いだ。
「突然かなーって、知ってたけどさ」
「………」
「やだった?」
「……やじゃなかったから、困ってる」
猫背にした新の顔を、かなでは上目に、ややきついまなざしを向けた。
それには、少しの照れ隠しも含まれている。
「ってことはぁ、もしかこれから、かなでちゃん、オレの彼女になってくれようかな〜とか、
結構可能性あったりとかして」
新の言うこと、なすことは、
いつでも多かれ少なかれそうだったが、
どうしていまそう言えるのかということを、ふと簡単に現実にしてしまうところがある。
それは、緩急というのかもしれなかったし
天性なるものなのかもしれなかったし
ただ呆れるだけでは少し足りない、言葉にできない想いをくすぐっていく。
今も、かなでにとってはそうである。
「なんて、こういう聞き方って、意地悪だよね」
「ほらまたそういうふうに」
「え?」
(肝心なところで逃げ道を
ちゃんと作ってくれるとか)
かなではひとつ近づいた。
「可能性は、今ならあるんですけど。けど、可能性というのは、
いつまでも同じところにあるものじゃないんですけど」
自分でも驚くくらいの率直な言葉が出たかなでである。
これで、例えば新が怒ったりして、ダメになってしまうならそれまでだというような、
一種の覚悟に似たものが、この日のかなでにはあったのだ。
そのために早起きをしているのだから。
「かなでちゃん」
新はいつになく真剣に呼んだ。
目を合わせたかなでは、思わず身構える。
「可能性はあるけど、まだ、100%じゃ、ないんだよね?」
「………」
「それならオレは、君のこと予約したい」
「―――」
「キャンセルはぁ、うーん……なるべくナシの方向で! これって、どうかな」
するりと手をほどいたのは、まずはどちらだったろう。
ほぐれていく心を映す、それはまるで鏡のように
新は腕をかなでの背に回して、かなではひとつ背伸びた。
「予約って、そんなの口で言うだけじゃダメだと思うな。って言ったら?」
と、かなではおでこをくっつけて言った。
強がる瞳がふるえるのを、新はちゃんと見ている。
「言葉でダメなら、じゃぁ、これで」
目線を絡めていくところ、触れさせたいところへ、少しずつ距離を詰めていくときの
うんと高鳴る鼓動のことを、重ねた唇は聞いたろうか。
予約なのに、これは少し長いかもしれない。
それは、わかっているけれど
キッチンで伝えあう想いは同じもの。
もう少し、あと少しと、甘い塩の結晶を溶かす。
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