「雨みたいだよ」
と言われて、真っ先に思い浮かんだ、君のこと。
きのうの部活が終わる頃、ちょうど入ってきた、
君からのいっこのメールのこと。
“びしょぬれ!”
新が受け取ったメールはそんなで、それは件名で、本文はなかった。
びっくりしたのは言うまでもない。
何故びしょぬれなのか、なにがかなでをそうさせているのか、少しもわからないのだから。
だからすぐに電話をしようとしたのだったが、ちょうど次のメールが来て手を止めた。
“ごめん本文忘れた”
その本文でわかったことだが、かなでは走りながら先の一文を打って送信したらしい。
朝は晴れていたのに、だからカサを持っていないのだという。
寮はすぐそこだけど、雨脚はどんどん強くなり、だから自転車小屋までしか走れなくて、
そこで雨宿りしている、と続いた。
“かわいすぎるヾ(^-^;)
ていうかかなでちゃん雨とかっΣ('□'*('□'*('□'*('□'*)
こっちは超ー晴れてるよまじか!”
というようなメールを返しつつ、
今すぐにカサを持って新幹線に乗れば、2時間もすれば迎えに行けてしまうなぁなどと考える。
考えたことはメールで打ってしまうので、その突拍子もない考えのことを、
かなではまさかと笑い飛ばした。
―――君はまさかっていうけどさ
確かに新は自分でも「ありえねー」と思いながら打ったが、
もしかして、来てと本気で返してくるなら、
(行けないこともないんだけどなー)
という、新の心持ちはそんなところだ。
しかし、その実本当は、そう簡単にいかないこともわかっている。
重っ! とされるのもいただけないし、
後で、やっぱ無理と送るのは、もっといただけないから、
これは、一往復で笑い飛ばしてくれて良かったんだろう。
(けどさ〜)
歯を噛むような気持ちで、返信する手元の速度が増す。
横浜に降ったという叩き付けるようだというその雨は
新が家についてからも、部屋着に着替えてからも、まだ続いているらしかった。
“雨の中でメールしてたら感電するかな?”
かなでは、見切り発車で自転車小屋を出たらしい。
小さな肩が雨にしっとりと濡れていくのが、
制服の色が一段濃くなるのが、鮮やかに鮮やかに、目に浮かぶようだ。
「……かなでちゃん」
夏の頃なら、水をかけ合って遊ぶことも出来た。
あの頃なら、濡れて帰るという彼女のことを、
涼しくて良かったじゃんくらい言えたかもしれないのに。
想うことはどうすれば、彼女の心に届くだろう。
200kmかそれ以上、言葉では少し、埋めづらい気がし。
夕焼けが、素早くぺしゃんこにつぶされた空を
いま、窓を開け放って、かなでのほうへ見やるとき
(オレは―――)
いまよりもっともっと、俊足になりたいと思うよ
雨よりも早く、君に追いついて
胸に抱き竦めて守りたいって思うよ
もう本当に、これはもう、マジなんだ
“o(;△;)o ! ちょ、まだ着かないの? だめだよもっと走って走って!
ほんっと迎えに行っちゃうよ?”
“私も行きたいo(;△;)o このまま走ってっちゃっていい?”
受け取って、すぐには指が動かなかった。
「……あ…そう、か」
きっと、あとからあとから濡れる手で打ったのだろう、
珍しくも顔文字なのは新が打ったのからのコピーかも知れなかったが、
それらは、今にも泣き出しそうな言葉に見えて、新の心がつかまれる。
ぎゅうとしがみつく指先で、背中まで皺にされそうな、思いがする。
すぐそこに、爪先までをびしょ濡れにしたかなでが、現れるのでないかと思った。
ああ、ごめん。
震えるほどにつめたいのは、
きっと、いま、もっと会いたいのは君のほう
なんでいないのって、思ってるのは君のほう
うん、そうだよね?
“ねぇ知ってる?”
それだけのメールを送った。
意図したとおり、かなではすぐに返してきた。
なにを? とそれだけの返信だ。
そう、そういうふうに、寒さなんか忘れるくらい、
かなでの感覚の全てを、新に集中させていて欲しい。
足りなくても、言葉でしか伝えられないから、そうやって研ぎ澄ませて待って欲しい。
“オレって、体温高いんだよ”
“それなら知ってる”
“だよね。じゃぁ、もういっこ。
かなでちゃんが帰るまで、オレがぎゅーってしてるから、
ぜったい風邪ひいちゃダメだよ”
それから、少しの間があいたから、
恐らくかなでが、新に―――正しくはその記憶に
集中したのだったらいいのにと思った。
「着いたよ」と、ちゃんと着替えた部屋着の中で
頭からバスタオルでも被ったかなでが間もなく打つだろうメールに
手のひらのなかみが震えるのを待つ。
(ううん、間もなくじゃなくても)
お風呂にでも入って十分暖まってからでもいい。
だいじょうぶ、っていうのだけ、知りたいから
寝る前に一度だけ、返信して。
「待ってるよー」
届けと念じた割に、いつものように、間延びしたしゃべりかたになってしまった。
月の弧は、上のほうが少しだけ欠けている。
雨でなければ、かなでのところからも、同じように見えるだろうか。
◇
その次の日のことだ。
「……アイツぁ……さっきからなにやってんだ」
ペットボトルをぐいとやり、火積は新を訝しむ。
そろそろ休憩を入れようと言ってから、随分時間が経っている。
引退した三年が差し入れを持って、ちょうど顔を出したというのに、
いつまでも彼は、そこでスライドを繰っていた。
新は、マウスピースに唇をのせて、かなでのことを考えている。
どっちを向いて吹くと、今日の彼女に近いだろうと
管の先、咲ききった朝顔のような金色を、夕焼けに傾けているのである。
「方位磁石のつもりじゃないのかぁ? おれにはそうとしか」
「なるほど、コンパスか。そう言われてみれば、そのようにも見えます」
「いい音を出すようになってきたよね、最近」
「……そりゃぁ、まぁ、そうだが。いつまでも落ち着きのねぇ」
自分の指導が行き届かず、とでも言うように、火積は八木沢に向かって頭を下げた。
「あれが水嶋のいいところだと思うよ。むしろ僕は、少し安心したかな」
「部長…」
「帰って来た頃は、沈んだ音ばかり出していただろう?」
「そういや登校拒否するんじゃないかって噂も立ってたな!」
「だよね、火積くんとぼくとで、毎朝学校まで引きずったんだっけ」
車座に、暫しの笑いがさざめいた。
つつましく広げた箱入りの菓子や、新曲の譜面やらが、ふと翳ったのはその時である。
同時にすぅと屋上を、滑る風には雨の匂い。
「……降る、か」
火積は自分の楽器に手を掛けながら、ケースを引き寄せて新を呼ぶ。
「水嶋ァー」
そして、めいめいに菓子を片付ける者、カラになったものをまとめる者、譜面台を折り畳む者、
さらに新に向かって再びの声を張る者と、
至誠館高校吹奏楽部の目を見張るべき団結力はこのへんにも現れているが、
車座が綺麗なコンクリート一枚になるまでに、時間はほとんどかからなかったのである。
しかし新はまだ演奏をやめず、そこでコンパスになっている。
「……あのB型が」
A型の火積には理解しがたいマイペースである。
屋上出口の扉前、4人は既に集合しているというのに、
他ならぬ八木沢が新のケースも持って、合流を待っているというのに。
「っとにアイツぁ……!」
拳を握りながら、大きな一歩を踏み出した火積を、八木沢はちょっと、と抑えた。
ちなみに彼はO型である。
先に部室へ行っていて、というようなことを言い残し、
八木沢はコンパスの長身へむかい、歩き始める。
膨らませた音が、少し重い。
ん? と楽器を下ろし、チューニングからやり直すならちょっとめんどくさいな、
などと思っているのか、八木沢の声はようやく新の耳に入ったようだ。
何度か呼んだのであるが、新にもそういう呼び方に聞こえたろうか。
「水嶋。どう?」
「なんか、倍音伸びなくってー」
「そうだね。それで困っているんじゃないかと」
さっきまでいい感じだったんだけど、と新は言い、
耳がいい、と八木沢は褒めた。
それは、褒めることで伸びる子である、というのもあるが、そればかりではない。
八木沢は、手のひらで空模様を映すようにした。
つられて新は空を見る。
「今日の音が良くないのは、水嶋のせいではないよ」
「……この雲行きはもしかして」
「そう、雨みたいだよ」
と、ぽつん、と管の先端に、小さな水のたまが落ちる。
「あぁぁやばっ!」
「ケースは持ったよ、早く行こう」
背を押し出す八木沢をも、扉前で待っていた先輩らをも、
新は一番に追い抜いてしまっているが、
それは埃を地面に貼り付けるだけの、まだまだ小さな雨である。
昇降口を駆け下りて、部室で帰る準備をして、
外履きに履き替えた足で生徒玄関に踏み出る頃には、
パタパタと、ズボンの裾にも跳ね上がる、大粒の雨になる。
◇
生徒玄関の階段を、ばちばちと叩くような雨であった。
張り出した分厚いコンクリートの屋根も、もうすぐに途切れてしまえば、
新はまもなく文字通り、濡れ鼠となるだろう。
「すっげー」
なにわくわくしてんだ、と言ったのは狩野だったろうか、
カサを持っていたのは八木沢だけで、上手いこと彼をキャッチした狩野は、
ラッキーとばかりに先ん出ている。
「……てめぇはどうすんだ」
火積は伊織にブレザーを貸し与え、自分は走って帰る旨を告げた。
伊織はやや申し訳なさそうだが、火積はトレーニングのついでとも言い、
5分もせずに着くだろうとも言った。
「オレはー、うん、雨宿りでもしながらのんびり帰りますよ」
「雨宿り……? んなとこ、あったか?」
「火積先輩は知らないかもしれないけど、あるんですよーちゃんと!」
「……まぁ、なら止めねぇが、風邪は引くな」
「じゃぁ、お先にね、ごめんね」
「Tchau! またあした〜!」
ふたりが水たまりを跳ね上げる音、それは陽気にさえ聞こえた。
雨の音が音楽になる、というようなことをうたった歌があったと思うが、
あしたになれば、その曲だけは上手く吹けるようになっている気がする。
不思議と、いや、何故ならば―――
―――この雨が、きのう君を、濡らした雨だ
目には見えない前線は、かなでが、新が眠る間に
その、たった一晩のうちに、確かに北上しており
しっぽにたくさんの雨粒をしたがえて、いまから新を濡らそうとする。
たった数段を駆け下りる、それだけの間に、なんてつめたい雨だろう。
「ひゃ〜……これは確かに」
件名だけで送りたくもなると、わかる、すごくわかるのだ。
猫っ毛はみるみると嵩を低くし、生まれつきの、緩いうねりがまっすぐに伸びて睫毛に届く。
ぬぐってもぬぐっても、顔中がずぶ濡れだ。
とても落ちついてメールなんてどころではない。
けれども、これが、彼女も感じたつめたさなら
もっともっと、降ったっていいと思うのだ。
カサを持って来なくて、大っ正解だと思うのだ。
雨の中で携帯を開いた。
雫の滴る指先で、きのうのかなでのメールをたどる。
時系列で読み返すことで、この雨がこのあとどうなるのか、まるで予言でもされているみたいにして、
ひとつひとつ、ぴたりとうまく符合する。
これは、思ったより長く続く、秋いちばんの雨らしい。
夜が更けても、少しだけ欠けた月は、とても見つけることができないという。
時折、アズキを散らしたような音をさせて、かと思うと、しっとりとせつなく緩んだりもして、
合間を読めば新にすれば、特別雨宿りが必要だというわけでもないように思えた。
火積のように走って帰るほうが得策なくらいである。
が、かなでが逃げ込んだという自転車小屋は、至誠館にもあるわけで
わざわざ廻りこんで、きのうのかなでのしたことを、
たどってみたい気持ちが勝った。
「うーわ、せまっ」
トタン屋根の下へ、背をよくよく折って入り、
きのうのかなでを上書きして、そうすることで、ひとつに重なる想いがある気がする。
離れていても、ここで溶け合うことができるのではないかと
「好きだよ」
ひょ、と目線を、雨の出所へ向け、
まるく呟いたその声を、前線がかき消しても、淋しいとは、
いまは、思わない。
「大好きだよ」
そのことを、一番に伝えたいのは、もちろんかなででしかありえない。
携帯が繋がったら、開口一番、なんて言おうか。
迎えにきてよって言おうか、届いたよって言おうか、
リダイヤルの、同じ名前の羅列のうちの、さてどこを選んでかけ直そうか、
そんなことを考えながら、通話ボタンを押した。
(感電したってかまわない)
耳に当てた、つめたいつめたい携帯電話は、
彼女を呼んで静かに濡れる。
明るい声にどきんとして、滑り落としたりしないように、
しっかりしっかり握り直した。
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