新はかなでを見ている。
正しくはかなでの手元を見ており、
更に詳しく言うと、かなでは制服のズボン(至誠館のもの、当たり前だが男子用)
を、私物のソーイングセットで手直ししているところである。
菩提樹寮の食堂の大きなテーブルに、ズボンMサイズは広げられ、
かなではそのうちの片足の、膝の擦り切れたのを繕っているのだが、
新はちゃんとズボンをはいている。
かなでは椅子に正しく座っているが、隣の新は逆に座り、
背凭れをかなでのほうへ四半回転させて、べったりと凭れかかっている。
新の長身ではここの椅子は座面も背凭れも幾分低すぎて、
こういう姿勢ではかなり猫背になってしまう。
「ふぅーん、じょーずだねー」
「じょーずでしょー」
「……」
新は珍しく不快な表情、
返事はしないで唇を尖らせた。
かなでの視線は勿論手元の針にあるから、新のそんな様子に気付くことも、
チラリと目をやることもない。
だから、邪気なく新の不機嫌の核心にさえ触れる。
「八木沢さんって」
「……部長がなに?」
「結構ドジっ子だよね、こんなにちょくちょくこけるひとだとは思わなかった」
「だよね〜、こないだなんかなーんにもないとこでこけたんだから。
だからズボンはストックのぶんもって行ったらってみーんな言ったのにさぁ。横浜に来る前にっ!」
「そうなんだ。あは、かわいいなぁ」
「………」
新の唇は更に尖る。
が、いくら尖らせても、上目遣いに抗議しても、
いまのかなでは目線をくれないのだということにも気付いている。
だから、跨いだ脚で床を蹴り、椅子ごとガタガタと移動して、
かなでとの距離をふたつみっつ詰めた。
「どうしたの?」
「べつにっ! 淋しい!」
「?」
見るものは近くなったかなでの手元、
ひと針ごとに着実にほつれが直ってゆくズボンの膝だ。
それは、先程から話題に上がっているように、八木沢が今朝、朝練のジョギングの途中、
寮からほど近い石段の昇りにてやや派手にやらかした結果なのである。
至誠館高校吹奏楽部計五名は、東日本大会で星奏学院に敗れたが、
敗れた瞬間から次の大会(来年開催)は始まっているという八木沢の訓示により、
朝練は継続されている。
来年は既に卒業している(はずの)者がいちばん熱心となれば、
来年に可能性をはらんだ下は張り切ってついていくしかない。
そして、下が張り切ってついてくれば、八木沢は物腰静かながら心のうちでは激しく燃えるタイプで、
派手にこけたのはその為だ。
「オレもこけようかなー」
そう言われて、かなではいったん手を止めた。
久しく合わなかったまるい目がふたり分、いま僅かにからみあう。
「相当痛かったと思うよー、これは。新くんは俊足だし、そのぶんこれじゃ済まないと思うから、
こけないでください。おねがいします」
「心配してくれてる?」
「うん」
悪い気はしない新である。
だが、問題の焦点は、厳密にはそこにあるわけではない。
いま大事なのは、かなでが新を心配するかどうかでなく、
―――いや、心配してくれないよりは心配してくれるほうがビバであることには変わりないが
かなでが新でない誰かのために、ズボンをその柔らかな手のひらにとって、
針と糸を使っているという事実のほうが、よほどフォーカスされるべきなのである。
その証拠に、かなでは一瞬目を合わせただけで、もうもとの作業を再開してしまっている。
八木沢は、近いうちにきっとまたこける。そればっかりは性分だから仕方がない。
きっとこけるし、こけたあとのズボンの状態を見れば、かなではきっとまた直すのだ。
まさに練習に出ようとしている、その玄関口であっても、
いつも忍ばせているソーイングセットをさっと持ち出して、すぐ直して持ってきますからって
誰にでも本当に、わけへだてないのだから。
新は、かなでのそういうところが、いいなと思っていた。
そう、はじめのうちはそうだったのだ。
けれども、今朝、玄関口で、
「どうもすみません、ほんとうにいいんですか」とか「困ったときはお互い様ですよー」とか、
自然にやりとりするふたりを見ていたら
そうでなかったらいいなという、
誰にでもでなく、新にだけだったらいいなという、
初めての気持ちに気付いてしまった。
「………じゃぁオレも針と糸使えるようになる!」
「え? なんで?」
「えぇっ、なんでわかんない?」
「わかんない」
「〜〜〜なんでぇ?!」
新は頭を抱える。
こんなことなら、家庭科の授業を遊んで過ごすのではなかった。
真面目に受けていれば今頃は、かなでが八木沢に手を差し伸べる前に、
そんなの、オレが超ー速で直してあげますよって言えていたのではないか。
「Meu Deus!」
昂った気持ちは語尾に出た。
ふたり以外にはひとけのない、ひらけた朝の食堂に、感情が残響する。
「ブラジル語わかんない」
「ブラジル語じゃなくてポルトガル語」
「日本語ならわかる」
「うー……あ! 『かしこみかしこみ申す』」
「……それつかったことない」
「日本語わかるって言ったじゃん」
新は一語一語覗き込むように、詰め寄るようにして矢継ぎ早に言葉を返した。
それだけ顔が近づいて、かなでは手元を見るのに顔を引くのだったが、そのぶんも新はすぐに詰めてしまう。
かなではいよいよ勘でもって針を動かすことになった。
「じゃぁOh my God は?」
「あ、それならわか―――っぅん…!」
その至近距離、新の瞳にまず映ったのは、
親指に走った鋭利な痛みにきつく目を閉じたかなでの反射だった。
「……かなでちゃ…ん?」
「……っ、」
新はようやく、自分の顔がかなでの手元を遮っていることに気がついた。
針と糸を使っている人間がこういう顔をする原因は、
急に食あたりを起こしたとかでなければ通常一つしかない。
「え? え? うそ刺したマジうそ…!」
「や、こんなの全然大丈
かなでは不自然に言葉を切った。
切るしかなかったからで、狼狽したからだ。
反射的に手放したズボンの代わりに、左手はいま新の手のなかに握られていて、
その先でちくりと刺した親指は、新の口許にしっかりと貼り付いている。
もちろんのこと、新は事前にことわりを入れていない。
「ね、ねぇほんとに大丈夫……だから」
新はnonとでも言いたげに首を横に振る。
含んだかなでの指紋のぶぶんに、まよいなくちろりと舌を這わせると、
かなではかなでで、緩く吸われる感触にびくんと背中を震わせた。
「……っん、も……新くんやめ……」
かなでの、きつく閉じた眉間に小さく皺が寄る。
その表情の解釈が、ふたりの間で微妙にずれる。
こうなる前に、かなでの親指を突いた痛みは確かに鋭かったが、
瞬間的なものでほんの2、3呼吸をするうちに消えるもの。
だからこの表情は痛みによるものでは既になかった。
けれども、家庭科の授業を遊んで過ごした新にはそれがわからない。
新は、自分のせいでヴァイオリニストの左手を痛めてしまったのでないか、
今日はまだ練習前なのに、
こうしている間にもセミファイナルは迫っているのに、
そこでかなでは、はじめての1stを務めることになっているのにと、
そのことばかり考えているのだ。
「こうしてたらすぐなおるって」
新が言葉を発したことで緩んだ唇の隙間から、
かなでは俊敏に指を抜き取った。
空いた方の手で包んだときの、濡れた感触に気付いたせいで、
息は浅くはやくなり、なお心配そうな新をあかい顔で見返した。
「……もう、なおったから」
「ほんとに?」
「ほ、ほんとに! ……ありがと」
かなでは、放り出したズボンをもう一度引き寄せて、
あともう少しだけの作業を始める前に、髪の毛を数度、ぺたぺたとなで付けた。
無論、特に乱れているわけでは、ないのだが。
そして、新もまた、すくりと伸びていた上半身を猫背に直し、
長い膝下を投げ出した、もとの姿勢になる。
暫しの沈黙がながれゆく。
このふたりが同じ空間にいるにしては、全く似つかわしくない。
その間に食堂には、起きて来た寮生や一時滞在の生徒が顔を出しては、
その、神妙かつやや息苦しげな雰囲気を嗅ぎ取ってさりげなく出て行ってはした。
代わりに隣室のラウンジには人口が増え、
不定期に上がる笑い声や、時折混ざる関西弁の会話とかが、
壁いちまいを隔てた新とかなでの耳にも届いた。
夏の太陽はいよいよ昇る。
「ん、ほんとにじょーず」
「えっ!」
「だからぁ、かなでちゃんめちゃくちゃ家庭科上手って。お弁当もいっつもすっごく美味しいし」
「そ、そう。……よかった」
今度はびっくりさせないように、
針で指をちくりとやったりさせないように、
かなでがちゃんと玉結びをして、糸をハサミで切ってから、
新は改めて話しかけたのであるが。
「んじゃぁ、かして、オレ持ってってくる」
「……あ、うん」
八木沢のズボンが片方の手から、もう片方へ。
それはただ、物質が空間を移動するだけだというのに、
その軌道上、確かにほんのりと重さを乗せてくるのは、いったい何というものだろう。
「Viva! どう見ても、どこつぎはぎしたのか全然わかんない」
裏返したり触れたりしながら、がたんと音をさせて、新は椅子を立ち上がる。
よく飽きないな、とかなでが苦笑するまでそうしたあとで、
いっとき神妙な顔つきをして、ものいわぬ目線をふいに、斜め60度上から落とした。
「……新くん?」
「ん。オレのしかしてほしくないのになぁって」
目が合った、そうかなでが感知したかしないかの、
ほんの僅かな間だけの、切ないものを飲み込めない、酸っぱいすっぱいかおだった。
「……うん?」
「じゃ、かなでちゃん、またあとでね〜! あ、お昼はオレ予約!」
そう、だから、かなでの見間違いなのかもしれなかったが、
見直すヒマもない、黄色い声と軽い足音は食堂をあっという間に抜けて行く。
後ろ姿なんかではとても量れはしなかった。
「そ、そんなにしてほしいなら持って来たらいいのに!」
かなでは、道具をセットに片付けつつ、
テーブルに散らかった糸くずや、縫い足しのための布片だとかを、いそいそと両手で集める。
そのあいだじゅう、胸につかない声の苦言が、口からポンポンと飛び出すのだ。
「破れたのとか外れたのとか、なによ持ってないくせにっ!」
制服のシャツは、いつも清々しく全てのボタンを開け放っている新だ。
使わないボタンは普通外れることもないだろう。
なおすことなど、いつまでも起こらないではないか。
では他は?
引きずっているつなぎの裾でも繕えばいいか? 次の瞬間には靴底に敷かれるものをか?
それではかなでは、日がな新の尻にくっついて歩いていなければならないではないか。
「知らない知らない! もう知らない!」
言い放った言葉を勢いにして立ち上がると、
集めた柔らかい繊維のカタマリを、ぎゅうと握り込んだ。
そのまま、向こうのゴミ箱へ―――
―――えいやってすればいいじゃない
「……………」
小柄だが腕力はあるのだ。
最近力強いボウイングも習得したのだ。
しかし、振り上げた腕は、どうしてもその先の弧を描けない。
投げようとすると、さっきの新のいろいろが行ったり来たりして
痛くなくなったはずの親指が、じんじんとまた、熱くなってくる気がして
ドキドキして
かなでの腕は、降りた。
まっ赤になった顔をうつむけにして、ゴミ箱までそのままぺくぺくと歩いた。
寮生がきゅうに増えたので、
これでは少し小さくなった、居室サイズのまるいゴミ箱だ。
「……あんな顔するなんて」
口を開けたゴミ箱の、直上で、手のひらをそっと緩めた。
色とりどりの糸くずが、ハラハラと軽く、おちていく。
「知らなかった」
いまから至誠館に当たるのでなくてよかった、と、思ったのかもしれない。
何故だろう、とても、勝てる気がしないのだ。
それには、かなでの音を変えねばならぬ気がして、
いや、むしろ、このあと紡ぎだす第一音が、
きっと昨日までとは変わっているのでないかと、
次々と繰り出される心拍に、まことしやかにそう思う。
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