用事は明るいうちに済ませられるはずで、
そうしたらとんぼ返りに山下公園に戻って、また彼女の演奏を聴けるはずだった。
いや、演奏もいいけれど、会って、顔を見て、話して、
そうそう、へんすぎるマスカットしるこはどんなだったかとか、
感想を聞くのも楽しみにしていた。
(―――なんて、おばさんを甘く見てた)
昼間の太陽を飲み込んだみたいな、濃い濃い夕焼けに、電線が撓って溶けそうだ。
新はほとほと肩を斜め下に落としながら、菩提樹寮の門で足を止め、溜め息をつく。
普段から着崩しの風情があるが、こたびは制服のシャツまで脱いでいた。
いつもインナー代わりにしている若葉色のTシャツが暫時メインになっている。
なにも脱ぎたくて脱いだわけではない。
これが、叔母を甘く見た結果の一つで、ただの不可抗力である。
左手に握った、くしゃ、とたたむでもなくたたんだシャツは、
雫こそ止まっているがまだ完全には乾いていない。
雨にでも打たれたのならまだしも、海水に浸かったあととあっては、
いくら出たとこ勝負の新でも、着たままいるのはためらいがある。
(É tão ruim……最悪っ!)
叔母からのメールにあった待ち合わせ場所に着くと、
迎えたのはやはり大きな荷物がたくさん、それはもとより承知していたのだったが、
荷物は何も物品ばかりでない。
学校に上がるか上がらないかくらいの、小さな従兄弟が何人もくっついていたのだ。
子ども+夏=海水浴
正確には夏はそろそろ終わり掛けなのだが、
はしゃいでいる黄色い声の内容からは、そんな式が瞬間に思い浮んだ。
どうやら叔母は、自分が日に焼けることを殊更にいやがっているようで、
いらないものまで買い込んだらしい百貨店の紙袋には、新のぶんの海パンもしっかりはいっていた。
呼び出しの本当の理由はそこにあったのである。
新は、海は好きだ。
夏も好きだ。
子どもも好きだ。
猫っ毛の後ろ髪が、少々山下公園方面に引かれていただけで、
腕をひっぱってくる従兄弟の顔ぶれを見ていたら、つい快諾の流れ。
浮かべかけた渋い表情はケロリと引っ込んでしまって、
片手に大量の荷物、もう片方には数珠つなぎの従兄弟を引いて、それもまた両手に花か、
競うように浜辺まで掛け出したのはそれから間もなくのことだった。
そして、夕暮れまでも、またすぐだったのである。
耳に残るのは喧騒、いま、ひとり門を前にして、蕩けそうな電線の下、
潮の粘りの消えない、砂っぽい腕を見る。
楽しいじかんは、駆け足だ。
そのまま玄関を入ろうとして、足元を見て気がついた。
靴の中まで砂が入っているのもそうだし、たくし上げたパンツの下、
長く伸びた膝下もしっかり砂まみれなのだ。
実家なら、気にせず上がってあとでゴメンて言おう、といったところだが、
ここでそれをやってしまうと、あとで火積のグーが飛ぶ。
しかも本気のが来そうである。
(無理、無理)
冗談で済むこととそうでないことの区別は、
きっとそうは見えないだろうが、これでもちゃんとつく。
想像しただけで痛い気がした。
まずは砂を落とさないと、と新は入ったばかりの玄関を出て、庭に回った。
勝手口をくぐればロビーからも出られるようになっていて、
たくさん植えてある夏の花につられるように、時折ここで練習する者を見かけることもあるが、
水栓を捻りながら、首をうんと伸ばして見ても、今日はロビーは暗く静かだ。
皆、外へ出て練習をしているのだろう、まだ誰も帰って来ていないようだ。
「……なーんだ。つまんない」
特に練習好きというわけではない新だったが、何だかはぐれ猫のような気持ちになる。
今頃は各校取り混ぜたメンバーで、ファーストフードかファミレスあたりでだべってたりするのだろうか。
こちらは日がな、砂にまみれて遊びどおし泳ぎどおし、腹もとても減っている。
(かなでちゃんもいるのかな)
思い立ったら、実行。これは新の本領だ。
急いで着替えて合流したい。
新はうん、と立ち上がり、水栓を多めに緩めると、靴を脱ぎ捨てて裸足に水をかけた。
ホースの中で暖まっていたぶんが、生温く甲を撫でる。
「んもうー早く…っ!」
焦れども、こまかな砂は脛に、腕に、あらゆる箇所に貼り付いていて、
止めようとするとああここにも、といったふうに見つかって、
なかなか、気が遠くなる。
水栓はしっかり緩めたはずなのに、鈍い水流であるのも一因で、
見れば巻かれた途中で折れているのに気がついたが、いりいりして上手くほどけない。
更に蛇口を緩めたが、折れたところで圧縮された水が、きゅるきゅると妙な音を立てるばかりだ。
ロビーに灯りがポッと灯ったのは、半ば投げ出しかけたときだった。
(…!)
今度は立ち上がっていたから、背伸びなくても誰が帰って来たのか、
首をちょっと回すだけでわかった。
「かっ……かなでちゃん!」
―――息を切らしてファミレスに出向かなくても、こんなにも早く、ここで、会えるなんて
それはもう、条件反射だった。
帆布製の、品のよいヴァイオリンケースを両手で持ちなおしたかなでは、
とりあえず電気をつけただけ、ということなのだろうか、
いまにもくるりと背を向けて階段室に向かおうとしている。
「かなでちゃんオレここ…!」
誰がお前を探していると言った? とそれこそ火積がつっこみそうだが、
探してなくてもかまわない、ただただ、自分がここにいることを、
彼女に気付いて欲しいのだ。
駆け寄りたいのに手にはホース、動けなすぎて、邪魔すぎて、
それなら放してしまえばいい―――
力の限り投げ捨てて、ペンキの剥げかけた勝手口へ、俊足は掛ける。
綺麗になったはずの裸足で、また砂を踏んでいる。
「かなでちゃ―――わわっ」
新が解放したホースは、いまや空中で綺麗に巻きなおっていた。
きつくきつく圧縮されていた負荷が、瞬時に内部に充満し、
吐水口はまるで生きているように暴れて、新のゆくのを追ったのだ。
汲み上がった地下水の激しすぎるしぶきを、
新は顔いっぱいで受け止めた。
「〜〜〜〜〜っ…!!」
たかが、扉一枚。
大きな声で呼んだなら、くぐもった声でもきっと、彼女の耳に届くはず。
けれどもこれでは、溺れるように水を飲みながらでは、
蚊の鳴くような声一つ、
あげることができない。
つめたい、きもちいい、ううん、やっぱつめたい
(かなでちゃ……ん)
逃げるほうへ逃げるほうへ、水は来た。
こうなる前に目を閉じればよかったが、しみじみと角膜へ侵入する真水が痛んで、
必死に振り払いながら、よろける足で後ずさるのがやっとだ。
暫時メインのTシャツまでをずぶ濡れにして、
後ろ足がバランスを崩した拍子に、肩で勝手口の扉を押し開いてしまったらしい。
床に倒れ込むのは本能でわかり、咄嗟に受け身の姿勢を取ったが、
瞑った視界で、背から落ちてゆくのは、結構な恐怖だった。
どすん、といった鈍い音と、呼応する衝撃に、更にきつく目を瞑った。
少しでも和らげようと構えていたことで、感覚はほとんどブロックされていたが、
あたたかく、柔らかな木の匂いは、薄く埃の纏う床からのものだろうか。
それから、パタパタとかけ寄る、軽いスリッパの音がする。
気配は、伸びている新のとなりで微かな衣擦れをつくった。
心配そうに名を呼ぶ声がかなり近い。
「うわー、これはひどい」
どこを見てそう言っているのか、額に貼り付いた前髪か、濡れた衣服か、砂だらけの足か。
むしろ、どこを見てもそう言われる自信がある。
新はしばつく目を堪えながら、薄らと目を開けた。
行儀よくしゃがんで、興味深げに覗き込む視線が眩しいのは、まだ水気が瞳に残っているせいだろうか。
「……かなでちゃんだー。おかえりぃ」
溜め息の延長のような、情けなげな声になってしまった。
力なく伸ばした新の手を、かなでは握ってあやすように振る。
「ただいま。もう夕方なのに、庭で遊んでるひとがいると思ったら、やっぱり新くんだ」
「あは、やっぱ、バレてた?」
「追っかけっこは負けたみたいですね」
「そうなんだよね。もうすっごく手強くてさー」
敵は、勝手口の敷居の向こう、新の足元で漸く大人しくなっていた。
何事もなかったかのようにさらさらと吐き出される水を、新は爪先で小さく蹴る。
唇も尖るというものだが、
「がんばったがんばった」
かなでは言って、頭をなでる。
その、からかうような、そうでもないような感触に、
新は、心で芽を出しつつあったイガが、丸くまるく修正されてゆくのを感じている。
「ありがと」
「ん。じゃぁ何か拭くもの持ってくるね」
「あ…そっか、床汚しちゃったから」
「それもあるけど、新くんが風邪引いちゃうほうが心配だし」
「―――心配、」
新はじーんとしていたが、それを余所に、
スカートは新の視線やや上方で、すくりと立って翻った。
(……!)
見ないフリができてたらいい。
ラッキー、なんて、とても言えないことの不思議を噛みしめる。
「あ、そうそう」
かなでは、突如キリッと振り向いた。
「っ、な、なにっ!?」
「ふふ、おみやげがあるんだよね〜」
「おみやげ? なになにおいしいもの?」
かなでは、サテとばかりに首を傾げつつ、
ヴァイオリンケースと一緒に持ち歩いているお弁当袋をごそごそとしている。
つい駆け寄りたくなるが、生憎濡れ鼠だ。
くれるものによっては抱きしめたくなってしまうかもしれないから、
ここは身を起こすだけで自重しておく。
「これ!」
小さな手を離れ、ヒョ、と描かれた弧を、新は抜群の反射神経で受け止めた。
いい音をたてて手のひらに収まったのは、125ミリリットルの小さめの缶。
「「マスカットしるこー!」」
素晴らしいユニゾンがロビーを埋めた。
「Está pasmando! なんかいみてもへんすぎる!」
矯めつ眇めつの新に、かなでは、戻ったら感想を聞かせるように言って、
スキップながらに階段室へ消えていった。
「んじゃぁ、かなでちゃんはどうなのさ」
自分のしたことの因果が、
わかりやすくもへんすぎるおみやげになって返ってきたのなら、
最高にアメイジングなのだけれど。
無論、新が昼間、かなでに渡したのと同じ銘柄だ。
かなでは、飲んでくれたのだろうか?
おみやげのわりに、とうに常温な小さな缶を、そっとポケットに入れる。
◇
服の濡れているのは変わらないが、足は綺麗になっていた。
ホースも、見よう見まねではあるが、一応片付けてある。
このところ、日が落ちると、空気が少しだけぴりとするようになったのに気が付いていた。
夕焼けを西へ押しつぶした藍色は、深く、ふかく。
昼間、海水に浸かったのが早くも信じられなくなるくらいに、
そう、そのうち昼間でさえ、爪先くらいしか浸せなくなるのが、
明確な予感になって降りてくる。
もうすぐ、きっと、それはほんとうにすぐに、やってくる気がする。
あと半分秋が近づいたら、かなではファイナルのステージに立って、
新はそれを客席から、どんな気持ちで眺めるのか。
どんな演奏でも、かなでがその腕を波打たせながら紡ぎだすメロディーなら、
膝を打って楽しめること請け合いだ。
だから、勝敗、それは、
ほんとうのところを言ってしまえば、どちらでも構わないのかもしれない。
気になるのは、彼女がステージを降りたあとは、
新もまた、会場を―――横浜を
この、向日葵の咲く菩提樹寮を、あとにすることになる。
そのことだけ。
漏れてくるロビーの灯りだけでも十分に明るく思えるくらいには夜が迫っている庭先で、
新は向日葵を見ている。
花びらは、少し萎れかけていた。
けれども、夜気の中でも、はっきりと黄色だとわかる色をしている。
その大輪の重みが、自身の首を撓らせるのを、否と最後まで空を向く、まだあきらめていないまるい花。
これを、かなでに重ねた日があった。
あのときも、こんなふうに、びしょ濡れになって
かなでもまた、びしょ濡れになって
クリーニングから返って来たばかりの制服を、下ろさせるハメになったのだったか。
ぱりっとして気持ちいいと笑うかなでが、
いつもに輪をかけてかわいく見えて、学校へ戻る道すがら、気がついたら手を繋いで歩いていた。
女の子って、細くて、ちっちゃくて、やらかくて、いい匂いがして
ことことと胸を躍らせるのはそんな要素ばかりで、
まだ、仙台に帰る日のことは、考えてもいなかった。
「……のになぁ」
呟いたのを聞きつけたようなタイミングで、扉がきしんだ。
カラコロとポーチを鳴らす小気味よい靴音は備え付けのサンダルらしい。
かなでが履くには少々大きかったはずだ、と思い、
新は見るものを向日葵からかなでにシフトする。
「大丈夫? ころばないよーにね!」
「へいきへいき」
とは言うものの、大きなサンダルを履いたかなでが、
タオルだか何だか、そんなものを抱えながら不器用に歩く様を、
ぼんやりと突っ立って眺めていることができない。
「オレが持つから!」
だから、かなでの歩いたぶんよりも、新ははるかにたくさんを進んで、
向日葵の庭の中心で、両の腕をしっかりと伸ばす。
目の前にいるかなではまだ、持って来たものを握ったままだ。
「どうしたの? 持つってば」
「持つより拭こう!」
「え」
かなではうんと爪先立って、
ひと呼吸のあとでふわと頭にかけられたのは毛足の長いタオルだった。
視界は再び不鮮明に、そして、ぐしゃぐしゃと豪快に掻き回されることで、
さすがヴァイオリニストの腕力を知る。
「か、かなでちゃん目が回る…!」
「じゃぁ閉じてて」
「うそっ、そういう問題?」
「そういう問題」
腕は少しも弱まらなかった。何だか、笑けてくるのである。
こういうのは、タオル越しに伝わってくるたおやかな指の感触に、
しこたまに酔わされるべきシーンだと思うのだが、
そして、猫っ毛がどこまで耐えられるのか、少々不安でもあるのだが、
かなでのすることは、いつも新を驚かせる。
そして、ますます好きにさせる。
「もう、ダメだよはげちゃうから」
「えっ!」
わかりやすく手が止まり、新はひょこっと顔を出した。
かなでがまじまじと眺めるのは生え際あたり、どうやら本当に心配している顔だ。
完全に劣勢になる前に、勝負を決めなければならない。そんな気持ちになる。
やや湿ったタオルを肩に、新は長身を折って、かなでの目線に合うように、覗き込んだ。
「もし、はげちゃったらさ」
「……うん」
「責任とって、仙台まで来てくれる?」
期待度MAX
同時に、不安もMAX
真顔になったかなでの口が、どちらの答えを選ぶのか
いまはまだ、とても聞ける気がしない。
「……なーんて、こんなこと言ったら、困っちゃうよね」
かなでは笑う。
何も言わずに、ただ笑って、それから新を通り過ぎた。
そして、それまで新がそうしていたように、向日葵の前で立ち止まる。
凛と伸ばした背中が、なぜだろう、これまででいちばん小さく見えて、
しおれかけた花びらに触れる指も、
さっきまで頭をぐしゃぐしゃとやっていた、あの指と本当に同じものなのか、
いや、とてもそうは思えないくらい、
夏の終わるのに合わせて、まるで、夜気に攫われてしまいそうだ。
つい、名を呼ぼうとしたが、かなでの声が遮った。
何かを押し殺して、懸命に声に出そうとする、そんなふうに聞こえた。
「向日葵って、枯れたあとで確か、種になるんだよね」
「―――」
ポンと返事ができなかったのは、何かが見つかる気がしたからだ。
生温い風が、ざわざわと心の中まで吹き渡るようで、
立ち尽くして背中を見つめる。
「とっておいて、来年植えたら、もっとたくさん咲くかな」
「かなで…ちゃん」
「目が痛くなるくらいにいっぱいにするから、そしたら、また、見に来てくれるかな」
かなでの語尾が揺れたのは
花びらを撫でる指がつるり、滑って落ちたのは
盛大にうつむいたのは
ねぇ、そういうことって思っていい?
同じ気持ちは、抱きしめたら、
少しくらい軽くなるって
そりゃぁ涙のひとつやふたつ、乾きもするって、ねぇ
今日はよく駆ける日だ。
公園でも、浜辺でも、帰ってからも
新は何かと、駆けている。
その先にあるものは、いつもかなでの笑顔であるべきだ。
いまや恐らく、目にゴミが入ったのでなく
かなでがほんとうに、泣いているのだとしたら。
それをどうにかできるのは、いつも自分であるべきだ。
「ぎゅってしていい?」
腕の準備はできている。
断らないでほしい、頭の中をそれでいっぱいにして、
寒くもないのに震える肩を見下ろしている。
「……それ聞く?」
「え」
「だっていつもいきなりぎゅってするから」
それからかなでは、小さく小さく続けた。
「そのほうがドキドキするんだけどな」
言葉は確かにそう言った。
けれども、まだ俯いている頭頂はためらいげに見える。
すすり上げる度に揺れるからそう見えるのか
本当は、まだ慣れていないからなのか
どちらにしても、新を留める理由には足りない。
「そっか。ん、じゃぁ、今のナシ!」
真正面からしか抱き竦めたことのない身体を、
いま勢いをつけて、はじめて後ろから抱え込んだら
「ほんと、いー匂い」
本当に、細くて、小さくて、柔らかいんだということが
痛いほど、わかる。
ぴったりと隙間なく抱きしめて、乾き始めた毛先を、かなでの頬に貼り付けるようにした。
「新くんは海の匂い」
「…そう、約束通り行ったのに、すっごいことになっちゃって。
ちっちゃい従兄弟連れて海まで荷物持ちとか、普通考えられないよね。ぜったい予測不可能」
「あは、それで水かぶってたんだ」
「うん、そんなかんじ」
そこまで言って、かなでの制服に染み込みつつある水分に気付いた。
髪の毛はさっきかなでがほとんど乾かしてくれていたが、
Tシャツのほうはまだしっかり濡れている。
「あ…! ごめん、これじゃかなでちゃんまで濡れちゃうよね」
「っ、いいの! ……いいの」
「けど」
「いいから、もうちょっとだけこうしてて」
かなでが自由にできるのは、最早手のひら以外に残っていなかった。
その、両方を使って、新の腕をしっくりとにぎる。
口付けるように、大事そうに、つつみこむ。
「今度、また夏が来たら、かなでちゃんの向日葵、ぜったい見に来る」
ふたりしか知らない約束は、種になりゆく花にかけて
無数の証拠にして
「だから、びっくりするくらいいっぱいにしといて」
「うん。うん、ぜったい」
観察日記もメールする、とかなでは付け加えて、
狭いせまい腕の中でやっと笑った。
終わりゆく夏に、忘れてはならないことは
また向日葵の咲くその頃に、
まずは、地方大会のステージに立っていたい、そのことだろうか。
彼女が、新よりも一足早い卒業をかけて、
満身創痍、臨むであろうステージに、
できれば、今度は、ファイナルまで
同じ方向を向いて、黄色く笑う大輪の花を咲かせられるように
きつく、きつく、染み込む想いを抱きしめる。
「かなでちゃんさぁ」
「うん?」
「あれ、飲んだ?」
「………」
「あ、その反応は飲んでないなー。おみやげって言うか、オレの買ったのそのままくれたでしょ」
「………はは、ばれたならしかたない」
「うっそ超まじ傷ついた!」
「ううん、ちょっとこわいから一緒なら飲めるかなーって、とっといたの!」
けだし名言、そのような声でかなでは言った。
けれども、いまにも抜けようとして身じろぐ身体は、どこか後ろ暗いところがあるに違いなかった。
新が、腕にひとつ力をこめたのは、抗議も多分に含まれているのである。
「かなでちゃんはずるすぎる!」
離したりなんか、してあげないんだから。
と、飽きるとは思えないけれど、一応飽きるまで抱きしめたら、
いや、ふたり以外の誰かが、ロビーに踏み入れるそのときまで抱きしめたら、
小さな缶をパカンと開けて、ふたり、飲み交わし酌み交わし。
歪むか、笑うか、どんな顔でみつめあうだろうと、
そのことまでを楽しみにして、
しおれゆく夏の匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。
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