◆Special Thanx for... 凌 様
〜Special respect for UVERworld
☆This story is written under the inspiration of 『シークレット』
☆R15年令制限/特殊設定にご注意下さい
◇
◆
◇
!!ATTENTION!!
天かなと響かなが同時進行するストーリーになります
響かなは成立済み、天宮は二股されている位置でストーリー上での円満解決はしていません
好みが分かれやすいため、苦手な方はお読みにならないようお願いいたします
どんな天宮でもおkな方のみスクロール↓
◇
◆
◇
もともとヴァイオリンには、そう自信があるふうな子でもなかった。
けれど、初めて合わせた音楽はあまりに素晴らしくて、面白くて、
もう一度会いたい子だと思わせた。
二度目に会ったときにはそう素晴らしい出来でもなくて、
僕に失敗を告げられて「すみません」と謝った彼女は、それからうなだれてうなだれて、
楽器を下ろした風情なんか、いまにも引きずりそうだったのを覚えている。
「愛の挨拶」という題目だけに、すぐに上手く行くはずもないと思ったし、
何が悪かったのかディスカッションを重ねても良かったし、
僕としてはそのあとで、もう一度合わせてみようかとも思わないでもなかったけれど、
彼女の様子を見ていたら、その日これ以上の練習は酷だと感じた。
だから、新しい提案をした。
言い換えると、彼女ともう一度会えたら提案しようと思っていた本題をこの日、吐露した。
「―――こ、い?」
「そう、恋だよ」
「……恋、ですか」
彼女のそんな緩慢に過ぎる反応からは、
とても想像できない答えが暫しの後で返ってきた。
「それならいましています」
「……へぇ、そうだったんだ。でも、まぁいいか」
そして、僕の答えもまた、彼女には想像もつかないものだったらしい。
既にある恋人の存在を告げたのだから、僕が身を引くとでも、考えていたみたいだ。
「かまわないよ」
なんと言っても、見た目が気に入っていた。
あとはまぁ演奏と、それから、実技のテストで良い結果が残せたのだと、
目を輝かせてその日の彼女はこのスタジオに入ってきた。
そのことが大きい。
何故ならまずその日にそこでまた彼女と会えるかどうか、運命と言い換えてもいいけれど、
そのことが僕がした、そもそも初めの実験だったからだ。
「君となら面白そうだ」
そう言ってピアノを離れて近づくと、彼女はぴりとした緊張を身に纏わせた。
その警戒に満ちた所作に吹き出しそうになりながら、
いや、実際少し吹き出しながらだったかも知れないけれど、
とにかく僕は、彼女から教わる恋というものにいよいよ興味を引かれていた。
「恋もしたことのない子に教わるんじゃ、僕とさして変わらない。経験者なら上達も早そうだし」
上手く行けば、全国コンクールにも間に合うかもしれない。
「どうしたんだい? なにか心配事でもありそうな顔だな」
言って僕は彼女に触れた。
ピアノの鍵盤に触れるときのように、そっと指紋で撫でてみた頬は、
それとは違う、柔らかくてみずみずしくて、暖かい。
彼女が瞬時に赤らんで、ビクと肩を竦めたときの鼓動が、いまでも鮮明に僕の指先に残っている。
「こ、恋なんて、あの、ふつうはふたりでするものだと、お、思いますし、私の場合それは既に」
「大丈夫だよ。恋を教わるのは僕で、君は君の知る恋を、僕にほんの少し分けてくれるだけでいい。
それが、そんなに難しいことかな」
「……分ける、ですか」
「勿論ただでとは言わないよ。僕は返礼として、君に音楽を教える。
いまの君の腕前では、全国コンクールのメンバーには到底残れないだろうし」
「―――」
どうかな、と瞳を近づけると、彼女はまず唇を引き締めた。
僕に何をされると思っているのか、唇のあたりに警戒を篭められると、敢えてそこを奪いたくなる。
僕の食指は彼女の頬から、緩められることのなさそうな堅牢な唇へと動いた。
「待、って下さい」
触れる前に、彼女は横を向いた。
その拍子に僕の指は彼女の体温から放されてしまった。
それから、横顔のまま、彼女は暫く考えて、それから漸く頷いた。
「わかりました」
「つきあってみる気になったかい?」
「……そこまで言うなら、私に、恋を、……してみて下さい」
本当は、あのとき彼女がビクと鼓動したそのときに、
僕の中でそれは目覚めていたのだろう。
さすが、経験者。
それどころか、現在も恋をしているという彼女が、
僕の指先を感じたことで見せた反応は面白かった。
そう言えばこんな話を聞いたことがある。
食前にスープが提供されるのは、空いた胃に暖かな、ほのかな刺激を与えることが、
却って食欲を増進するためなのだと。
それをこの場面に応用すると、僕の手指で身を竦めた彼女の仕草を見たことは、
もっと触れたらどうなるのか、とその場で早くも彼女への興味を増進させたことになる。
そのときから確実に僕の心を浸食していた痩せた根は無尽に伸びて、
いま、その先端を日に日に鋭くして僕を刺す。
「さ、さよなら」
「またね」
頷きもせず否定もせず、後ろ姿のままで練習室を出ていく彼女。
僕が飽かず観察したことは、僕の渡した走り書きの連絡先を、
彼女が短いスカートのポケットへしっかりと入れる瞬間だ。
脈は、ない訳ではない。
そんなことを考えながら、じっと手を見た。
この手で彼女は、ほんのいま、確かにここで、
明確に僕を感じて震えた。
これら五本の僕の指は、それまでピアノを弾くためだけにあったはずで、
けれど、その信念は、その日から少し疑わしくなった。
出会いはそんなものだったけれど、妙な話で、彼女の初めては僕だった。
初めて、というのは気持ちの問題でなく、身体の問題。
僕の初めては彼女で、それは身体のことでなく気持ちの話だ。
きっかけは何だったのか、
とにかく彼女は、僕のする実験は斬新だが、「恋」の役にはあまり立たないと、
言い換えれば僕は少しも上達していないのではないかと、ある日指摘した。
恋をするということは、やはり僕が容易に習得できるような単純なものではないらしい。
自分でも気付いていないでもなかったし、
ではもっとそれらしいことを、と思った僕は、
コンサートのチケットを二枚用意して彼女を誘った。
これは良い考えだ、いかにも恋人同士のすることだと彼女は瞳を輝かせ、
気が向いたらおいでとしか言わなかったのに機会は間もなく訪れた。
気が向いたことになるんだな。
と思い至った僕は、コンサート前のホワイエでいつになく上機嫌で、
いつもは入らないドリンクコーナーまで冷やかしたりして、
彼女のぶんと一緒に支払いをしながら、気持ちの跳ねるのを感じていた。
その日の帰りに、聴いてきたベルリオーズの「幻想」について話をした。
失恋とはどういうものか、
まぁそういった、その曲の作られた経緯だとかについて。
恋の実験をしながら、恋にまつわる曲を聴いて、恋の話をしながらの帰り道。
「君は恋をしていると言ったけれど、なら、失恋をしたことはある?」
「ないです」
「へぇ。そう。いまの恋人が初めての恋人だということか」
「はい」
それならば、彼女に初めての失恋を教える相手は、
僕か「彼」かのどちらかということになる。
少なくとも、僕は遠慮したい気持ちだった。
彼女が悲しい顔をするところは、傍から見ているほうがいい。
僕が当事者でない方がいい。
そんな思いがした。
「随分遅くなってしまったね。門限は大丈夫なのかい?」
彼女の寮は管理がずさんなようで、
いつ帰っても中に入れる入り口があるのだと言った。
「そう。それなら、僕の部屋に来る?」
「―――え?」
「どうしたの? 門限はないのなら、つきあってもらおうかと思ったんだけれど。
もう少し、試してみたいことがある」
僕の実験の内容を、彼女はよく理解しているようだった。
あからさまに迷っていたし、口数が少なくなって、
夜道で暗かったから確かではないけれど、どことなく、赤らんでいるように見えて。
彼女に失恋を教えるのは、僕ではなくて「彼」がいい。
ただそればかり考えて、突発的に浮かんだ実験だ。
ここのところ恋の上達のことばかりにうつつを抜かしていた僕は、
ひとつ段階を踏むごとに、とかく貪欲になっていた。
「もっと恋人らしいことをしよう」
話をすること。
好きだと口に出してみること。
町へ出てデートをすること。
すべて成功に終わったんだから、
次のステップに進まないと。
「気が向いたらでいい」
そう言って、彼女のほうへ差し出した僕の手は、
散々迷いはされたけれど、結局拒まれることはなかった。
それから、あかりを落とした僕の部屋で、彼女が、
僕が初めてだったことを知った。
―――そんなことがあって、
きょうもいままで僕の下になって乱れていた彼女は、
気を取り直したようにして電話に出ていた。
僕は少し眠っていたらしく、正確には彼女の電話が震えたことで意識を取り戻した。
目を伏せたまま寝たフリで、彼女に身体を寄せてみる。
引っかかりのない素肌は未だ火照りを残していて、声も甘みをたたえたままだ。
受話器から漏れて来る男の声と、彼女の嬉しそうな話し方から、
僕の耳は、その相手が彼女の恋人なのだろうと推測した。
「友達の家にいる」と、「うん、練習」と続けて笑う。
狸寝入りも楽じゃない。
(……友達、か。それは少し違うな)
なんだかいやな気分がして寝返った。
それだけで、まさか起きているのを勘付かれたわけではないと思うけれど、
彼女の声はそのとき一段小さくなって、ベッドを降りた気配を背中で感じていた。
声を殺して、「友達」の僕は溜め息をついた。
「練習」の方は正解だ。僕の、恋の。
いまは、とても恋をしている気分ではないけれど。
リビングの電気のスイッチが押された音。
冷蔵庫を開ける音。どれも良く馴染んで聞こえる。
二週間には満たないか、いや、わりとそれくらいは経ったのか、
どちらにせよ彼女はそれだけの間に僕の部屋の一部になっている。
相変わらず話はよく弾んで、彼女は甘えて、
笑い声が絶えない。
電話の向こうの「彼」というのは、
恐らく少しも疑っていないんだろう。
僕には彼女のやや過剰な演技が、
寝たフリをしていたって痛いほどわかるというのに。
彼女が変わったこともわからない。
ちゃんと彼女と恋をしているはずの男がそんなふうで、彼女はそれでいいのだろうか。
それでも「彼」に、彼女はいまも、満足しているというのだろうか。
僕なら
自分の恋した相手が
処女からそうじゃなくなったら
彼女がどう隠そうとしても、
僕の前でいかにも清純そうに振る舞おうと、
必ず見抜けると思うよ。
重い身体は朦朧とするのに、少しも寝付くことができずに、
ベッドの上で身を起こした。
電話の終わった彼女が再び寝室に入って来たときの僕は、
暗がりで一体どんな顔をしていただろう。
◇
狸寝入りのままで日々は過ぎて、
セミファイナルを勝ち進んだ彼女は、
いよいよ次のファイナルで僕と当たることになっていた。
こちらもこちらで練習が立て込んで、
彼女に会えない日々が増えていたことは確かに否定できない。
だからその日は久しぶりに彼女とスタジオで顔を合わせた。
僕は彼女の音の中に、初めて聞く音色を見つけていた。
いや、いつも聞こえているはずの音色が、ひそやかに裏側に回ってしまったように聞こえた。
つまりそれは、僕の音の上に乗せたくない感情。
つまり彼女は、なにかを隠している。
恐らくこれが、彼女との電話で「彼」が感じ取れなかった機微だ。
僕ならば、ほらこうして、瞬時に捉えられる機微のこと。
けれど
捉えて僕は幸せかな
合わせるほどに苛ついた。
彼女のヴァイオリンは返すがえす近付いてこない。
なにを隠すのか、
なにを後ろめたがっているのか。
後ろめたさは僕でなく
「彼」に持つべき感情じゃなかったのかい?
これじゃ、勘のわるい彼のほうが幸せじゃないかな
「愛の挨拶」。
一度失敗して、それから一度成功したこの曲が、
いまでも良い演奏で弾けるのかどうか、
この日の実験はそういうことだった。
僕の音楽に足りないもの、それは恋だ。
恋さえすれば、それが満足のいくものになるって、
あの日この場所で初めて君と会って、ピンとひらめいた僕は、
君となら、恋ができると思ったはずなのに、
おかしいな、少し会わない間に退化している。
「きょうはもうやめにしよう」
曲の途中だったけれど、弾くのをやめて椅子を立った。
尻切れた蜻蛉のようになった彼女の音色がきしきしと弦を掻いて落ちる。
「身が入らないようだから。家で個人練習でもすることにするよ」
「……ごめんなさい」
「謝ることはないよ。実験は、そういつも上手く行くとは限らない」
楽譜を纏め始めた僕に合わせて、彼女も片付けにかかろうとしていた。
とても心ここにあらずな手つきだ。
「なにも君まで帰ることはないよ。まだ予約の時間は残っているから、
良ければもう少し弾いていくといい」
「そ、ですね。はい」
ねぇ
君、いまホッとしたね
わりと長い帰り道で、僕と気まずく話さなくてすむって
「それじゃ、お先に」
「あ、はい。……がんばりましょうね、ファイナル」
「君もね」
って、ファイナルまでもう会わないような言い方だ。
―――と、スタジオを出る暗い階段の途中で気がついて、
僕はこれから帰る場所を自分の部屋から急遽変更した。
なるほど。
きょうの僕は練習じゃなく、
他にすることがあるみたいだ。
誰かにそうせき立てられているような気がした。
◇
天音の生徒だが、学生寮の視察をしたいと受付のハウスキーパーに申し出たら、
簡単に許可された。
本当に、管理がずさんというか、素朴というか。
一応お目付役として、そのへんを歩いていた星奏の男子生徒に付き添われて、
共用棟のラウンジだとかピアノだとかを見て回って、
男子棟の最上階にある居室のひとつに案内されていた。
初対面なのに随分と屈託のない話し方をする彼によれば、
コンクールに出た他校の生徒が多数継続して宿泊していて、
ここは現在空いている数少ない部屋らしい。
「ふぅん、そう。滞在費だってばかにはならないはずだけれど、
どうやらその『かなで』さんというひとに、随分と人望があるんだな」
「人望っつか、お人好しっつかな」
「……へぇ」
確かにお人好しのほうが似合っているかもしれない。
名前を知らないと恋もできないらしいのに、
まだ恋人でもない僕に、恋人よりも先に身体を開く。
「そのかなでさんというのは、僕の知っているかなでさんと同じ子かな」
「あ? アンタかなでのこと知ってるのか」
「セミファイナルでファーストを務めていた子なら」
「おー、それそれ。そのかなで」
そして、そのセミファイナルでセカンドを務めていたのが、
いま僕を案内している如月という青年だ。
何故僕が彼のことを覚えているかというと、
ステージで見せた彼と彼女との掛け合いが、
まるでぴったりと息の合っていたのが印象的だったからだ。
演奏はだから素晴らしいものではあったけれど、
何故かあまりいい気分じゃなかった。
「ま、なんの変哲もない寮だろ」
言われて我に返った。
そうそう、寮の視察に来たという名目だった。
「ちっと薄気味ワリィけどな」
夕闇に沈む洋館の一室は、そろそろ電気を点けたほうが良い頃合だ。
彼はカーテンを引こうと窓辺に寄ったが、
僕はこのままでいいと断わった。
「けど……お、かなで帰ってきたな」
窓から姿を捉えたらしい。
彼の表情が明るく変わる。
「そうなんだ。人望あるファーストの彼女に、折角だからお会いしたいな」
「会ってもただの危なっかしい女だぜ」
「実は僕も音楽には心得があってね。一度機会があれば合わせてみたいと思っていたんだ。
階下のピアノは、僕が弾いても構わないのかい?」
「あぁ、そういうことならどーぞどーぞ。ちょっと調律がアレだけどな」
僕の言った内容に、彼は特に疑念を持つようなこともなく、
納得すると、少し待つように言って部屋を出た。
なんの変哲もない部屋は生活音が筒抜けで、
彼が階段を降りる靴音も、他の生徒が時折行き来する声も、
ここまでよく聞こえる。
しばらくして、廊下に彼女の声が聞こえてきた。
自分に客が来る覚えはない、とか何とか言っている。
会ってやれよ、とか何とか彼は言っている。
その親密そうな雰囲気は翳りゆく部屋にまで漏れてきて、手に取れるようで、
僕の中で黒い何かが目覚めたんだと思う。
彼にお膳立てしてもらえるならなんて都合がいいのだろうと考えた。
ドアノブがキィと回って、僕は立ち姿を整えた。
扉を開けた彼の肩越しにおぶさるように甘えながら、
彼女は僕を目にしてギョッとした。
「あ…っ」
「なんだ、お前も知ってるのか」
「どうしたの、妙な顔をして」
彼の質問と、僕の質問と、
どちらにも即座には答えられない彼女は、
僕が靴音を立てて近づくのに全身を固めたようにして、
密着した彼の背中からカクカクとした仕草で剥がれた。
彼と肩を並べた彼女の前方、一体どの辺りで足を止めようか。
彼に勝るとも劣らぬくらいには親密そうで、それでいて、
ただの「友達」だと言い逃れることができなくもない距離は、
それは、どのくらいかな
「こんばんは」
「……こ、」
「いい寮だね。僕にも一室貰えるかな」
彼女は一歩下がった。
近づきすぎらしい。さすがは僕の恋の先生だ。
僕との距離感はこれくらいで、
困り果てたときに身を寄せたい男は僕じゃなくて彼のほうなのか。
「なんてね。冗談だよ」
僕が喉を鳴らしてそう言ったときの、
彼女の安堵した顔と言ったら。
「気が向いてね。視察がてら如月さんに案内してもらっていたんだ。ね、如月さん」
「おう。っつかそもそもアンタの学校は立派な寮あんだろ?
みなとみらいから見える、あの背の高い」
「そう。防音が効いてるんだ」
ね? と同意を求めるように、僕は彼女に視線を向けた。
目だけで無論声には出さなかったのに、
彼女はビクと首を竦めた。
驚いた。思い当たるフシを指摘されると、演技もできない子だったかな。
それは 知らなかったな。
意外にもそんな仕草が見られれば、いまのところはそれで満足だ。
思わぬ収穫だと言ってもいい。
続けて彼に視線を移す。
彼は、僕からと彼女からと、同時にまなざしを向けられて、
客人と恋人のどちらを優先に目を合わせるべきかを少し戸惑ったみたいだ。
どうやら彼も、少なからずお人好しらしい。
そうだね。そういうひとじゃないかと思っていた。
「ラウンジや食堂と言った共用スペースが設けられているのは、
冥加に話したら参考にするかもしれないな。きょうはありがとう。出掛けに足止めをして悪かったね」
「いや、別に、大したことしてねぇし。んじゃ、あとはかなでに任せてオレメシ行くわ」
「えっ響也、」
「ああ、至誠館の待たせてっからさ」
もともとそのへんを歩いていた彼は食事に向かうところを、
僕の案内をするために少々遅らせた経緯がある。
至誠館のというのは、先程から階下で賑やかな声が上がっている生徒たちのことだろう。
「君も行きたいのかい? 構わないよ、僕の用事はすぐだから。済んだら僕が、店まで送って行こうか」
「お、良かったな、そうしてもらえ。夜道は暗いからな」
「響也ぁ…」
「つか、アンタ」
「天宮だよ。天宮静」
「あぁ、天宮。ピアノ弾くなら7時までな。一応住宅街で壁薄いから、よろしく」
「了解。7時ね」
出て行く彼に彼女は鋭利に振り向いて、その方向をずっと見ていた。
後ろ姿が気に入らない。
「そんなところに立っていると、ドアが閉められないよ」
僕の近づいたのも気付かなかったらしい。
片方の腕を回して抱き竦めたときの、あからさまな驚きに胸が絞られた。
そんな、初めてされたような反応をして。
空いた手で閉じかけた扉に、彼女の身体ごと圧迫することで、
外部とこの部屋とを完全に遮断した。
腕の中で反転させた彼女は見るからに萎縮していて、
半ば無理矢理に奪ってみた唇の感触が随分とひらたい。
さっきスタジオで感じたのと同じ違和感がする。
いつものようには靡かない彼女から、後ろめたい味がする。
「……へぇ、」
離した唇は未だ十分濡れていなかった。
「どうやらいまのが君の恋人かな」
「ち、違…!」
「隠さなくても。君は音に出るからすぐにわかるよ」
「……音、って?」
説明させたいのだろうか。
彼の音と彼女の音が、聞けばすぐにそれとわかる寄り添い方をしているんだ、なんて。
それから、きょう彼女の出したヴァイオリンの音もそう、
さっきのキスもそう、
明らかに彼女は僕との間に、まだ僕には言っていないことを隠している。
それがいったい何なのか、
僕の耳が聴き取れていないなんて、
まさか思ってはいないよね?
僕の口からそれを聞きたいというなら、お人好しは返上だ。
僕は一切答えずに、身体を密着させることで、
彼女から逃げる隙間を奪うことに集中する。
胸に触れようとすると身体を捻って逃れようとする。
腕で囲って再び近づけた唇には首を背ける。
「……強情だな」
そんな力ない拒絶で、男が諦めるとでも思ってるのだとしたら、
ひどく浅はかな抵抗だ。
「……響也に、なにか、その……言ったんですか?」
「なにも。彼が言ったままだよ。君に用向きがあるって。嘘ではないし」
「用って、さっきは部屋に帰るって」
「そう。君はファイナルまで会わないつもりだったようだけど、
僕は気が変わったんだ。君とどうしてもしたくなった」
いつのことか知らないけれど
いつの間にか知らないけれど
この間してからきょうまでに、たった少し会わない間に、
彼女の音を変えたものは何なのか。
少しずつ彼女が距離を取っているのは何故なのか。
してみればわかるのかもしれないと思ったから。
「実験だよ」
この言葉が彼女を誘惑することに、僕は気付いていた。
こう前置くことで、彼女は安心する。
実験だから、実証ではないから、
彼女の中で滅ぼせる罪というものがあるらしい。
実験なら、
僕と会っている間だけそのように振る舞えばあとは自由。
その間になにをしても、実験ならばなかったことにできる。
「……実験?」
「そう、実験だよ。確かめたいことがある。わからないかな」
顔を背けているから、白い首筋はすぐに露にできる。
僕はそこへ唇を当てて、逃げられないように甘く噛む。
「っ、や……っん、ちょっと、待って、ください」
僕は決して責めているんじゃない。
そもそもそれで良かったはずだ。そういう条件だ。
けれど僕はいつからか、実験という言葉を故意に利用している。
そう言わなければ彼女が僕のものにならないことを
僕はいつから気付いていたんだろう
首筋に痕が残らないようにしたのはせめてもの僕の良心だ。
それを質にとって、粗暴な手をスカートに入れて柔らかな肌を撫で上げると、
彼女は足をきつく閉じて上昇を拒む。
力技で侵入してできないことはないけれど、
それでは僕の溜飲は下がらない。
彼女はもっと、僕に対しておおらかだった。
拒まれるなんて、有り得なかった。
次に僕が言葉にしたのは、これで最後の手段だった。
言いたくて言った訳じゃない、
問えば間違いであるはずのない問いかけだった。
「なるほど。彼とした?」
「…っ!」
耳たぶまで含むようにして、ずるい声で問いつめた。
彼女の短い喘ぎが上がる。聞こえる。
とても拒絶とは思えない、艶めいた響きで喉が鳴るのが。
いやなことを問われるのは拒むからだ。
素直に応じていれば、わざわざ尋ねたりしないのに。
「どうしたの。答えてくれなきゃ。彼としたの?」
「や、……め…!」
「やめるのは質問に答えてもらってから。それが順序じゃないかな」
理不尽な問いかけに、彼女は潤んだ目で見返した。
そのさまは生まれたての鹿だか馬だかのように弱々しく、
震える唇をどうにか噛み合わせるようにして、
自信のなさそうな風情で首を横に振った。
「感心しないな。かなでさん」
後ろめたさが彼女の足を緩ませる。
僕でない誰かが、この前僕がしてからこれまでの間の、
とても短い期間にここを通った。
その事実が僕にも彼女にも、こんなにも圧倒的な辛酸になるのなら、
ねぇそれなら何故、するのかな君は
僕と、彼と
「ねぇどうなのかな。僕は何も難しいことを聞いてはいないはずだよ。
僕としたように彼と、したのかしないのか。まぁ、隠すなら身体に聞いたっていいけど」
絶句したのが隙になって、僕の手のひらは彼女の足の間を許された。
指先のまるみで柔らかな皮膚をへこませるだけなのに、彼女の体温は湿度を帯びる。
胸で結んだ大きなリボンを僕にしては粗雑に解きながら、
反論されないように言葉で埋める。
ここにあるもののすべてを、ただ僕と彼女がつくるものだけにしたい。
空気のひとつさえ、そしていまは音楽さえ、
僕と彼女の邪魔をして欲しくない。
そう思うと、僕の身体の底と心の底が、なんだかひどく熱くなる。
「恋をしてみてなんて言っておいて、ひどい子だな。ひどい先生についたから、僕は学べば学ぶほど、
君にひどいことをしてあげたくなるのかな」
「天宮、さん…!」
「いいよ。怖いなら、怖いひとと呼んだっていい」
落としたリボンが彼女の靴にかかった。
しがないボタンをむしるようにして制服を開きながら、
彼女の注意を胸元へ惹き付けておいて、
太腿で這わせていた指を一気に下着の中へ滑り込ませた。
「ぁ……ッ!」
なんだ
濡れてるんじゃないか
普通に
腹を立てて乾ききっているのかとばかり思っていた。
これでは僕を調子に乗らせるだけだと思うけれど、
僕はなにか間違ってる?
「どうしても答えられないなら、質問を変えようか。僕のと彼の、どちらが好き?」
よくもそれだけ首を振れるものだ。こちらだって乱暴にもなる。
浅瀬にあった指の関節を進めて、いつもしないようなやり方で突き立てた。
「あっ、あっ、や……!」
崩れる膝を押し戻しながら、
背を丸くして、露になった胸を唇で探る。
耳許で、彼女の呼吸が浅くなってくる気配がする。
そう大きくはない胸だけれど、白くてさわり心地が良い。
寄せるとよく弾んで柔らかいし、舌で濡らすとすぐにツンと角を立てる。
彼がしても同じなのかな。それとも僕だからこうなるのか―――
そんな都合の良いことが起こるはずもない。
彼女は僕でも彼でも、同じように感じて火照って、
こちらが危なくなってしまうような声で媚びるのに違いない。
「視察したところ、随分壁が薄いんだね。そんな声を出したら、聞こえてしまうんじゃないかな」
口許に持って行こうとした手の甲を差し押さえた。
「君だけ押さえても無駄だよ。僕が君の名を連呼すれば、異変はすぐに知れ渡る。
それがいやなら素直になって。僕の質問に答えて」
ひどく胸が鳴る。
きっと、これで質問は最後だと、
彼女は今度こそ、きっと答えると、そう思った。
そういう顔をしている。
彼女はもう決めている。
答えは既に、出ているんだ。
「じゃ、聞くよ」
「……はい」
「君は彼と、セックスした?」
「……した」
「初めてだ、なんて、嘘をついたりもしたんだ?」
僕の心拍は、それまでに最高潮に達していた。
こんな音を、僕の鼓膜は聞いたことがない。
それが不快で、煩くて仕方がないのに、
新しい質問にはまるで答えようとしないで、彼女が僕から目を逸らしたことが、
更に鼓動を速くした。
「彼と、僕と、どちらが気の毒なんだろうね。この場合」
「……」
「初めてだ、なんて。それでは君は彼と僕のどちらにも、嘘をついたことにならないかい?」
なかったことになんて、僕はしないよ
深みから指を抜き取るとひどいぬめりが連なった。
解放しようなんて少しも考えていない僕は、
壁に釘付けられたような彼女の肩に腕を回して剥がすと、
先に立たせて追い立てるように誘導しながら、
真新しいシーツの張られたベッドへ昇らせた。
小柄な彼女の、あるかないかくらいの重みでも、
この寮のベッドは軋むのらしい。
「もう少し、奥へ行って」
「…ん……」
更に彼女を圧迫して僕の膝の乗せられるぶんだけ空間を作る。
思うより僕は急いているのか、
彼女の腰を抱き込むようにして覆い被さっただけで、
シーツにはすぐに、波立つ皺ができてしまった。
スカートの裾へ分け入って、着衣の上から宛てがってみる。
こうやって、僕と同じようにして、
彼女を屈服させた男がいたようだから、
ちゃんと元に戻さないと。
「や……ねぇ、やっぱりここじゃ」
「おとなしくしないと、本当に連呼するよ」
「―――」
「かなでさん、かなでさん、て。綺麗だね、とか、可愛いよも入れたほうがいいかな」
それは耳をうっすら掠める声で言っただけで、
それでも彼女は嘘のようにおとなしくなった。
「そう。いい子にして」
なんて、こわいひとを気取ったけれど。
嘘だよ 声なんか出したりしない
君の名を呼んだりしないよ
この行為は この関係は
誰にも知らせてやるつもりなんてない
これは僕だけの このぬかるんだ君は僕だけの
これまでのことなどどうだっていい。
ただ僕は彼女のことを、
これからの彼女の、声も、姿も、演奏も、
一切を誰にも触れさせたくないだけで。
両手で彼女の腰を引き付けて、
肌と肌とを直接に、触れ合わせた音に震える。
馴染んだはずの感触がどことなくよそゆきで震える。
後ろからにしたのは顔を見たくなかったからだ。
快感にしても苦痛にしても、
僕の下になって表情を自在に変える彼女が、
彼の下になって同じようにするのだろう彼女と重なりそうで不快だからだ。
そんな彼女を見ていたら、
境界の判別をつけられなくなりそうで、
だからいまは見たくない。
ちゃんと、僕の君に戻すまでは。
「妙な気持ちだ」
「……うん?」
長さのすべてを埋めたときに、
僕はついそう言って彼女を振り向かせてしまった。
上目遣いの長い睫毛がゆっくりと、濡れたように瞬く。
「なんだかいやだな。君が、誰かに恋をしているなんて」
それはただ、そもそもからある圧倒的な事実でしかなく、
最初からなにも変わらないのに、
僕だけが変わっていく。
君を選んだのは失敗だったかな
苦くて、苦しくて、こんな想いが恋であるはずがない
やっぱり駄目だ、僕には恋なんて、できるはずもない
僕の音楽には恋が必要だ、
音楽で世界を手にするためには、恋を知ることが必要だ、
そのことも変わらないのに、反して僕が変わってしまう。
暖かい彼女に包まれていたら、
きょうは彼女にひどくして、いっそ彼女に失恋というものを教えてやろうかなんて、
考えていた僕の心が溶かされていく。
決して誰にも知れないように、彼女の声も、僕の声も、
ただのひとつも漏らさないように、ただ静寂に隠れて絡まりたい。
内緒でいい、実験でいい。
いっそ失敗だって構わない。
それでも僕は、どうせなら、
どうせ恋をするのなら、彼女から教わるこの恋がいい。
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