◇◆◇Chapter 4 -Spring◆◇◆
桜の下に彼がいた。
冬枯れの風情から少しだけ赤らんだ、数多の蕾はもうすぐに開くだろうか。
天音学園からほど近い、公園というのか散歩道というのか、
その途中に置かれているベンチに、彼は足を組んで座っている。
卒業証書が傍らに、ややどうでもいいような感じで置かれている。
反して熱心に眺めているのは、たぶん楽譜。
星奏の卒業式と天音の卒業式が、上手い具合にかぶったので、
私も本当は、午後から部活の打ち上げみたいなのがあるんだけれど、
その前に少し時間を作って、早く天宮さんにおめでとうって言いたかった。
けれど、いざこうして来てみると、特におめでとうとか、言って欲しそうでもないかもしれない。
まぁ、そのへんは、天宮さんだから仕方がないとでも思うしかない。
勝手かもしれないけれど、それでも私は言いたいのだ。
「天宮さん!」
手を口許にかざして、常より少し大きな声で呼んだ。
彼は目を上げて、ここ、と隣を指す。
私がちゃんと呼んだのだから、せめて小さくでも呼び返してくれたらいいのに、
まぁこれも、天宮さんだから仕方がない。呼びたいのは私だ。
座る前に、まずは彼の膝の前に立つ。
「卒業おめでとうございます」
「おめでとう? しっくりこないな」
「……はぁ、やっぱりな反応ですね」
「難しい大学の卒業式でもなし、天音学園高校は、普通にしていれば誰でも卒業できるよ」
「そういうことじゃないんですっ。おめでとうございますっ!」
「はいはい。ありがとう」
一応の謝辞を受け取り、溜飲が下がる。私もよく訓練されたものである。
「また新しいオファーですか?」
私は腰を下ろしながら、彼の譜面を覗き込んだ。
「まぁね。今度のは気楽だよ。コンピレーションCDの収録」
「こんぴ…って?」
「君も、見たことくらいはあると思うよ。名もなき演奏家がひとつのテーマに従って演奏した曲が
一枚の盤に収められる。興味はあるけれど、どのCDを買えばいいのかわからないようなとき、
コンピレーションが一枚あれば、気軽に概要に触れてみることができる」
「ああ、ありますよねそういうの」
天宮さんによれば、それをきっかけに世に出て行く演奏家もいるんだとか。
名前は載ったり載らなかったりだけれど、そういうこともあるから面白い仕事なんだと言った。
けれど、私からしてみれば、天宮さんのピアノがコンピレーションCDだなんて、
それはちょっとお得すぎるんじゃないかと思う。
天宮さんと言えば一時期雑誌に出たこともあるくらいのひとなのに、
アレクセイさん(だったか)の後ろ盾なしで独立するというのは、やっぱり大変なことみたいだ。
後悔はしていないと言うけれど、下積みなんて本当は、いらないくらいのひとだよ。
私は少し申し訳ない。
「浮かない顔をして」
「え、ううん。大丈夫ですよ。発売したら私も買います。なんていうCDですか?」
「何だったかな。そうそうここだ、『お昼寝クラシック』」
「……おひるね」
天宮さんの演奏でお昼寝だなんて贅沢にもほどがある。
ぽかんと狐につままれたような顔になってしまった私を、彼は喉を鳴らして笑った。
「新しい解釈が身に付きそうだよ。これはこれで楽しいものだ」
「そうですか。意外と前向きなんですね」
「意外かな」
「はい。……あ、やっぱりいいえ」
「そうだろう?」
そもそも天宮さんはほぼ初対面の私に対して、恋というものを教えて欲しいと言ったひとだ。
後ろ向きな訳がなかった。
ことに音楽に対してはそれくらい、いつでもアグレッシブであるひとだ。
静かに静かに秘めている、彼の底知れないぶぶん。
私はそこにこそ、恋をしたのかもしれなかった。
「いつか僕の名前で、一枚くらい出さないととは思うけれど」
「はい」
「その時には君とのデュオもいいな」
「そ、そんな…!」
「きっと、僕がひとりで弾くよりも、もっといいものになるよ。だから君も、あと一年がんばって」
「―――はい」
どうしよう、いま、ものすごく天宮さんが好きだと思った。
がんばってがんばって追い付かないとと、そう思った。
「さぁ、かなでさん。どこかでお昼でも食べようか」
「はい!」
「両手が塞がると君の手を繋げないから、半分持ってくれる?」
「は、はい」
渡された楽譜を急ぎ封筒に詰めて、胸にかかえて手を伸ばすと、
天宮さんは、私の指だけをまとめて窄めるようにして繋ぐ。手のひらを合わせると暑いらしい。
少し淋しい気もするけれど、仕方がない。
夏を越えて秋が来たら、またちゃんと繋いでくれるだろうから。
「部屋、引っ越しいつですか? 私も手伝いに行きます」
「残念ながら、そう気合いを入れるほど荷物はないよ」
「いいじゃないですか、新しい部屋楽しみなんです」
「そう。じゃ、君の好きなように飾ってくれていいよ」
桜の並木はまだ花をつけない。
満ちて開いて、そよそよと風にそよぐ頃には、またひとつ好きになるだろうか。
それも含めて楽しみだ。
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