お菓子は持ってきた?
玄関口のドアを開き、かなでを招き入れながら、天宮はそう尋ねた。
続きに靴を脱ごうとしていたかなでだったが、思わず足が止まるくらい、その質問は意外だったのである。
かなでは見上げて問うた。
「お菓子?」
「そう、お菓子」
天宮の視線はかなでの手元、近くの雑貨屋のロゴが入った紙袋だ。
かなでは困った。
聞き間違えたろうかと、先程の電話の内容を反芻する。
部活動を終えて寮に戻り、鞄を置いたその直後。
会いたいと思ったタイミングで丁度受けた電話だったから、
彼の言葉はダイレクトにかなでの心に響いた。
それらを全て思い出して、そして改めて自信を持った。
電話口の天宮に頼まれたものはどう思い出しても、
『ろうそくをいろいろ。それもできるだけたくさんがいい』
一字一句きちんと覚えている。
そうだったはずだ。気が利くタイプでないのは知っているはずだから、
欲しいのならちゃんと言ってくれないといけない。
かなではもう一度きちんと顔を上げて、目を合わせて明確に言った。
「お菓子はないです。ごめんなさい」
「そう」
ちなみに天宮は驚いている。
驚かれて驚いているのがかなでである。
ないのか、と確かめるように天宮は一人言って、それからこう続けた。
「まぁいいか、君がそのつもりなら」
「へ?」
「どうぞ」
「……おじゃまします」
さっさと先に行ってしまう天宮の背を怪訝に見ながら、
きちんと揃えて用意されているかなで専用のスリッパに、急いでつま先をつっこむ。
* TREAT is What All You Can Do *
玄関を入ったときから薄々気付いていたことだったけれど、
リビングから漏れ来るあかりがない。
居眠りをしていたにしては出てくるのが早かったし、
ピアノの音も、うっすら聞こえていたような記憶がある。
「天宮さんて、真っ暗でもピアノ弾けるんですか?」
前を行く背中に呼びかけると、足を止めて天宮は振り返った。
その間にかなでは距離を2、3歩詰める。
「何故?」
「だって」
と、キュ、と腕を掴んでつかまえた。
返した言葉と相まって、甘えたように見えたろうか、天宮はかなでの腰にそっと腕を回した。
特に色気のない、殺風景な廊下だけれど、ドキと胸が打つだけで特別な景色に見えてくるから、
恋というものはわからない。
あたたかさを受け取った、それだけで、続く言葉をなくしてしまう気がする。
「ステージでも、始終鍵盤とにらめっこしながら弾くわけじゃない。
君だってできるんじゃないかな。暗がりでヴァイオリン」
「……はぁ」
衣替えから一ヶ月、今朝は目覚めて、ベッドの中でひとつ震えた。
季節が秋から冬へ、ごろんと前に転がったみたいな日だった。
出掛けに時間がないのに、クリーニングのビニールのかかったコートをひっぱり出して、
今年初めて袖を通した日、
そうしなければとても外に出られないと、本能で感じた日でもあった。
「何ならいまから試してみるかい? 伴奏なら喜んでつきあう」
「……いいです」
「あぁ、まだ指が動かないか。暗いけれど、部屋は暖めてあるんだ。喜んでくれる?」
かなでは改めて前を見た。
半端に開いたドアと、やはり闇に沈んだ空気。
暖めたと彼が言う、その夜気に向かって、ふ、と引っ張られる腕に頬が緩むのを感じる。
「嬉しいです」
へんなひと。
けれど、今こうされて、誘われて、とても嬉しい。
天宮に似てきたのだろうか、こちらまでへんなひとになりつつある―――
―――そうだったらいいなどと、妙なことを考えてしまうのだ。
天宮に続いてリビングの敷居を跨いだ。
それで初めてわかったことだが、いつもの部屋は正確には、
真っ暗闇に沈んでいたのではなくろうそくが其処此処に灯されていた。
ピアノの譜面の脇だとか、
ソファと揃いのローテーブルの上だとか、
あと、楽譜を並べている書棚にも、互い違いに置かれている。
ほんのりした暖かさは暖房でなくおそらくそのせいで、
暗順応に備えるべく構えていたかなでの視界がぼんやりとした暖色に緩む。
「どう?」
と、足を止めて、
「驚いた?」
とばかりに振り返る天宮の肩に、こつんと鼻先がぶつかった。
中華街を抜ける間に、冷気がひやして赤くなったそれを持ち上げると、
睫毛の影がゆっくり瞬くのまで見ることができた。
しっかりしっかり見ることができたのである。
「……びっくり、しました」
何故って、停電でもないのにと。
何故ろうそくと。
ひとりの部屋というのはふつう、淋しいものだ。
かなでも寮に帰れば、食事のとき以外はひとりだから、ときに無性に淋しくなる。
だから寝るその直前まで灯りを落とすということはしない。
天宮は確かに変わっているところがあるが、
これまでの「お部屋デート」を思い返してみる限り、部屋がこんな様子だったことは流石になかった。
かなでは構える。
天宮はまた、何か実験でもしようとしているのではないかと、
それはかなでの直感だった。
なんせ、出会った時からそうなのだ。
このひとは、なにかというとかなでを使って、なにかと実験しようとする。
違和感を感じたときは気を付けないとと、
そういう危機管理意識は、秋を迎えるずっと前から、かなでの中に染み付いている、
一種、習慣になっている。
構えたので、組んでいた腕をそっと放したのだったが、
天宮は気にも止めない様子で、それどころかちょうど良かったとでも言うように、
かなでの下げていた紙袋を指先から奪った。
滑った指先の摩擦が、かじかみを一瞬、溶かしていった気がした。
「……天宮さん」
「どうしたの? 座ったら?」
そう言って指すのはピアノの椅子だ。
指を指すとかの方法でなく、頭を少し傾けて、それを示す。
「………でも」
かなではヴァイオリニストである。
ピアノの椅子に座っても、何もできない。
どちらかというと緊張してしまうし、
リラックスしてという意味なら向こうのソファを指してくれた方が幾らも助かる。
迷っていると、手のひらが背中を押してくる。
その、ぽん、と促すだけの力に、どうしても逆らえないのは、
ゆらゆらとする、定まらないろうそくのひかりの所為だろうか。
天宮にしても、かなでにピアノの才がないことは幾らもわかっているらしい。
艶出しの椅子にかなでの腰が降りたと見るや、
譜面台に載っていた楽譜は無造作に脇へ追いやってしまう。
かなでは肩から爪先まで硬くなる。
今朝下ろしたばかりのコートは身体に少しも馴染んでいなかったらしく、
いまになってごわごわとした質感を感じる。
なにをしようというの
譜面まで取り上げられてしまったら
私はいまからここで、なにをしたらいいの
なんて、そればかり考えて、
気付いたときには痛いくらい、ぎゅっと手を握りこんでしまっている。
固く拳をつくった隙間から、きちんと揃えた膝の上へ、
つるつると汗が零れてきそうだ。
そんなかなでの焦燥を、天宮はどれほど見ていたろうか、
俯くばかりの頭頂を、
そのとき不意に釣り上げたのは、まるい陶器を譜面台に打ち付けた、
その、如何ばかりかの衝撃音だった。
「―――かわいい!」
かなでは目をまるくしてそう言って、思わずそのまるみに手を掛けた。
カボチャの形の容器はその実キャンドルで、大きさに見合うだけの小さな炎がちりちりと灯っている。
天宮はその手ごと、コトコトと揺らして見せた。
「今日はハロウィンだから」
「……うん?」
きょとんとしたかなでの胸元で、白鍵が橙にゆらめく。
「ハロウィン…」
「ピンとこない、という顔だね」
そのとおりだ。
ハロウィンと言われて思い浮かべるもの、それは多く見積もっても、
手の中のカボチャのろうそくくらいで関の山で、
その、笑ったみたいな怒ったみたいな表情以外に、
その祭についてのはっきりとした認識がかなでにはなかった。
なけなしの知識をたぐり寄せても、収穫祭? だとか、
けれど、なにを収穫した自覚もない。
実家はただ一介のヴァイオリン工房である。
例えばクリスマスみたいに、例えば誕生日みたいに、
おめでとうと言えばいいのか、ありがとうと言えばいいのか、
まるっきり、わからないのだ。
「あ、あの、天宮さん、」
何故かとても嬉しそうな彼を前にして、
いったいなにを喜んでくれたのかがこつんとわからないのだ。
天宮は、それに答えるでもなく、
かなでから取り上げた雑貨屋の紙袋の封をぷつんと切っていた。
よく見ると、切られたテープもカボチャの柄だ。
彼に出会った夏からこちら、
そのいつの日よりも寒いと感じたこの日は、
世間ではこんなにも記念すべき日だったらしい。
袋のなかみをごそごそとして、天宮はろうそくをひとつ取り上げた。
特にハロウィンでなくてもよく見かけるかんじの、いい匂いがするというふれこみの、
どこにでもあるアロマキャンドルだった。
天宮は、譜面台のカボチャからそれに火を移しながら、品定めするような目線で言うのである。
「ろうそくを買ってきて、と言えばヒントになるかと思ったけれど、今回の実験は失敗だったみたいだ」
「……実験? 失敗?」
「僕の考えていることが、君に正しく伝わるかどうか」
泣きそうにでも見えているのか、そしてその推測は遠くはないが、
ちょうど涙の伝うあたり、けれども未だ乾いている柔らかい頬に、
天宮は親指を這わせて笑う。
「っ…、」
「ハロウィンの日に、僕は電話で恋人を部屋に呼んで、彼女にろうそくを買ってきてと頼む。
つまり僕は君にいたずらをしようとしている。正しく読んだなら君は、
ろうそくではなくお菓子を買って、僕をあっと言わせるべきだった。そうじゃないかな」
「……そんな実験、知らない」
焔の向こう、たぐり寄せられるような唇に見えた。
天宮はそれを、かなでに向かって寄せて寄せて、影になるまで寄せた。
だから次の言葉は、半分その表面に触れられながら聞いたことになる。
「読めなかった君は、僕の仕掛けた実験にまんまと引っかかってしまった」
「……ちが」
「違わない。君にとっては失敗でも、僕にしてみれば大成功だ」
天宮は断定して、かなでの反論など、全て飲み込むようなキスを仕掛けた。
誘われるまま受け止めると、早くも高い水音が鳴る。
初めから、そんなキスだったのだ。
だって、もともとそこにあった唇は、天宮がひとつ息を吸うだけで、
簡単に簡単にくっついてしまう。
くっつければ、更に簡単に蕩けてしまう。
「…ぅん…っ」
ろうそくは、その青い根元へひとつ、熱い雫をこぼしたろうか。
からかうような顔をして、煌煌と温度を高めながら、そこから見ていたろうか。
ただ、誘われるままに腰を浮かせて背を抱いて、
瞼を伏せる瞬間には、それを確かめることができなかった。
「どうする?」
問われたのは息継ぎのほんの僅かな隙間だった。
「……っん、って?」
「君が例えばコートのポケットかどこかに、キャンディでも隠していると言うなら、今ならもらってあげてもいい」
「だ、だから、お菓子はないですってさっき」
「なんだ、本当に大成功なのか」
くすぐるような口付けを最後にひとつ、残して、
ふわ、と腰から抱き上げられた。
「や、ちょ、天宮さ」
「『お菓子をくれなきゃ』? それに続く言葉が問題だね」
「……えっと」
「ハロウィンを知らない君だって、それくらいは思い当たらないかい? 僕の勘ぐり過ぎかな」
問いかける目線と共に、アロマキャンドルはかなでの手のひらにポン、と置かれる。
「どこに置く? 君の好きなところに置いていい」
「もう置くところがないですよ」
「まだある」
かなでを抱き上げても、歩幅はじつに揺るぎない。
あまりにさくさくと歩く所為で、かなでの足からスリッパがひとつ、ふたつ、脱げて、
「開けて」
と、天宮が引いた寝室のドアの隙間に、爪先はうまく滑り入っていた。
万事窮スとの言葉が一瞬脳裏を行ったが、唇の表面に残る甘みは否定出来ない。
抱かれた体温を、このまま手放したいとも思えない。
「開けます」
かなでは爪先に力をこめた。
えいやとすれば可愛いだろうか、恥じらった方がいいだろうか、
ほんの少しだけ迷って前者を選び、ピンと突き出すようにして、あっけらかんと解放する。
どう? とばかりに見つめると、天宮はとても満足そうだ。
良かった、そう思う。
泣いても笑っても、天宮の仕掛けた実験に引っかかってしまったのなら、
せめて自分で仕掛けることくらいは満足してもらいたい。そう思う。
抱かれて踏み入れたそこは、今度こそ本当に真っ暗だった。
電気も、ろうそくも、灯りという灯りがひとつも見えない、
ただシーツの白さだけが浮かび上がる、その空間だけが強調されて見えた。
そう、寝室というだけあって、ほぼベッドしかない部屋。知っている。
そんなの、ずっと前から知っている。
「どこに置きますか?」
「君の顔がよく見えるところがいいんじゃないかな」
言って、天宮はかなでの身体を寝台へ降ろす。
その置き方が少し乱暴だったので、かなではやや眉根を寄せて苦言した。
「もう、消えちゃいますよ」
「消えなかったじゃないか」
「……そうですけど」
どうして内緒ばなしみたいに、小さな小さな声になる。
ここにはただ、天宮とかなでだけ、
それにひとつ、小さなあかりが枕元に加わっただけだというのに。
申し訳程度に漂い始めたキャンドルの香りは、
寝室の広さにやや足りないかもしれず、それは明るさもまた然りだ。
けれども、天宮はそれを「ちょうどいい」と言って、
しっとりと上昇を始める体温で、かなでの身体へと、まるでフタをするようにして重なる。
「君のを置こうと思って、待っていたんだ」
コートのボタンを、ゆっくりゆっくり、焦らすようにして解いていく、
その手つきとは裏腹に、天宮はすこぶる無邪気な笑顔を見せた。
直上からの溢れるような視線は、本当に待っていたと、そう言ってはばからない。
かなでの欲目であったかもしれないが、その時の天宮は、
ずっと食べたかったお菓子をもらったこどもみたいな顔をしていた。
コートを脱いだだけなのに、随分と身体が薄くなったように感じる。
かなでがしきりに隠そうとするのは、膨らみとも言えないくらいのなだらかな箇所で、
天宮はしかし、そのふたつのまるみを確実に捉えることで、
いつしかかたくなな腕を、ゆるくゆるく跳ね退けることに成功してしまう。
「…っぁ、だめ」
「お菓子をくれない君が悪いよ。知らなかった? 僕はろうそくより甘いものの方が好きだ」
「だっ、て、言わなかったじゃないですか…っ!」
「知らないなら、教えてあげたっていい」
「いまから?」
「いまから」
僕の好きな、甘い甘いものについて。
言って落とされる意思を含んだ確かなキスに、深く深く沈まされながら、
枕元で融けていく蝋の音を聞く。
じじ、と1ミリずつ、芯を流れる香りまで舐めるようにして、
ひっきりない水音を継いでいく。
「わかった?」
天宮は問うて、かなでは睫毛を重そうに持ち上げた。
「……天宮さんの好きなもの?」
「なんだ、また失敗なのか」
「や、やだ、失敗はいや」
「そう急がないで。そのうちわかると思うから」
そう言った、ほんのりと、カボチャの色に染まった顔である。
しっくりと背中に腕がまわり、唇が首筋に痕をつけると、
不安だったこと、聞きたかった言葉まで、確かに忘れさせられそうになり。
「……ん」
しがみついた背中の窪みに指先が嵌り込んで、
ドキ、として目を合わせる。
影になった暖色の睫毛に、甘い甘い鼓動が打った。
天宮は、そんなかなでをわかったろうか、感じたろうか、
腰のまるみをするりと撫でて、更にその先をくすぐる、
下着のふちで鈎にした、悪戯な指先に溶かされる。
− TREAT is What All You Can Do・完 −
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