乾燥機のドラムの中へ、彼女の制服を投入した。
室内に吊るしておけばそのうち乾く、みたいな濡れ方じゃなかった。
僕は彼女を抱きしめる腕は持っていたけれど、傘を持っていたわけじゃないから。


映画館から部屋まで走る間に、濡れた彼女は冷たい冷たいと、
泣いたのをごまかすようにしてよく話し、
僕は息が切れて上手く返事ができないから「うん」ばかり言って
彼女は本当は僕より足が速いのかもしれない、
そんなことを考えていた。


スイッチを入れる前にはたと気付いて指を止める。
「速乾」に設定してあることを思い出して良かった。
パネルを操作して「ゆっくり」にしておかないと。
明日も着るのだろうから、きつく回転させて皺にしてしまったりしたら、
彼女はきっと悲しい顔をする。
そのせいで、練習を断わられたりしたら
きっと僕まで悲しくなる。



今日は泣かせてしまったから
泣いてしまったから



もう、決してあんなふうにはしないんだと
僕はちょっとした使命感に溢れている。




* la arietta con appassionato *






ランドリーから扉一枚。部屋に戻ると、彼女はピアノのまわりをうろついていた。
屋根を閉じた上に重ねてある楽譜を、そっと持ち上げてなかみをパラパラやって戻したり
けれど、本当はそれが目的ではないらしく、
そういう目で僕を見た。
音楽科に通っているのだから珍しくはないだろうに、可愛いと思う。


「その服で、良かったのかい?」
「えっ? うん…似合わなかったかな」
「ふふ、そんなことはないよ。ただ、もう少し小さいのだってあったんじゃないかな」
「とは言うけど、私の引き出しじゃないのにあまりごそごそするのも」


だから、一番取り出しやすかったのを出して着たのだという。


「なるほど、それならこれからは、一番上には僕には少しきつくなったのを置いておくことにしようか」


そう言ってピアノの傍へ歩み寄る。
何より、これからは今日みたいなことにならないのが一番いいのだけれど、
僕の服を着た彼女を眺めるのは、悪い気分じゃなかった。


「弾いてみる?」
「弾けない弾けない!」


まさかと大きく首を横に振りつつ、
けれども、やはり興味深げに、つるつると光沢のあるグランドに目を輝かせている。


「いいよ、開けてみても」
「指紋ついちゃうし」
「なんだ。そんなことで迷っていたのかい? 指紋なんて、僕が開けても同じじゃないか」
「ううん、天宮くんはさらっとしてるもん」


言われて、更に笑いが込み上げた。
彼女の中では、だからって指紋もつかないことになっているのかな。
この間、夜に出掛けた実験で、僕が頬に触れた感触は、
つまり指紋さえ感じられないほど、ほぼ無機質だったということになるじゃないか。
そう、そういうことだ。


「だめだな、こんなじゃ」
「うん?」
「実験は、僕が思うほど成功してはいないらしい」
「……うん?」
「気にしなくていいよ、君のせいじゃない。だからまた次の実験を考えて、
 つきあってもらわなきゃいけなくなったけれど」


と、ピアノに手を掛けると、彼女はひとつ近づいた。
楽しみだ、というのがはっきりわかる顔をして、僕を促す。
いつものピアノの屋根を、いつものように上げるだけなのに、
なんだかショーかなにかを、始めるような気分だ。


ピアノの屋根というのは、しっかりとした木のかたまりだからかなりの重さがある。
僕の手が誤って滑れば、とたんにそれは凶器になる。
だから少し離れるように言ってから、ゆっくりと斜めに持ち上げた。


「わぁ、弦いっぱい…!」
「弦? ―――あぁ、そうか」


彼女は4本の弦を奏でる者で、
僕は88本の弦を叩く者だ。
その数では圧倒的に僕がまさっているけれど、
それら弦を叩くのはハンマーで、僕が直接触れるのは鍵盤だから、
調律するときを別にすれば、普段まじまじと見たり気にしたりすることもない。
4本でも、直接弦に触れて押さえて、震えるのを指先で感じることのできる彼女のほうが、
いくらも弦というものを意識するらしい。
紅潮した表情は、そのうち頭をつっこむのでないかと心配になるほどの興奮を見せている。


「ほら、危ないと言ったはずだよ」
「へへ、つい。ごめんなさい」


そして、彼女は再びうろうろと、横から眺めたり、後ろから眺めたりして、


「ね、なにか弾いて欲しい」


弾くと、弦たちがどうなるのかが気になると言う。
なかなか向学心の旺盛な恋人だ。
このあたり、僕たちは似ているのかもしれない。


彼女は音楽を求め
僕は恋を求め


目指す高みは違えど、確かに似ている。
だから、僕は彼女のことを、あの日選んだのかもしれない。
何故彼女にしようと思ったのか、明確な理由が必要なわけではないけれど、


弦と弦が奏でる音を、合わせてみたときの
どこか、ここではないところへ来たんじゃないかと、
そういう景色を見た気がしたとき
そこでなら、見つかるかもしれないと思った。


ひとり、部屋に戻ったあとで、同じ曲を弾いてみたけれど、
彼女のいないこの部屋では、あの景色が浮かぶことはなく
僕の音色はやはり僕の音色に戻り
うん、だから彼女を選んで正解だったと、いまでもそう思っている。


椅子を引いて鍵盤に相対し
斜め向かい、飽かず天板の中身を覗く彼女を見る。


「そうだね。乾くまでに時間もあるし、いいよ。何がいい?」
「ええと……そうだ。天音はファイナルで何を弾こうとしているのでしょうか?」
「へぇ、敵情視察かい? どこの学校に影響を受けたものか、君も随分と趣味が悪くなったものだね」


それに、随分直接的な物言いをするスパイだ。
もっと、オブラートに包みながら、情報は引き出すものだよ。
そんなだから、あまりに肝を抜かれた僕は、
候補のひとつくらい演奏してあげたくなるじゃないか。


「冥加に聞いてみないとわからないな。多分、まだ決めてないんじゃないかな」
「やっぱり冥加さんが決めるんだ。ぽいよねと思ってたけど」
「それでいいんだ。一番いいものになるんだから。ただ、僕にも弾きたいものがないわけじゃないけどね」
「じゃぁ、これだったらいいなっていうのを聴きたい」
「なら、これかな」


短調なのか長調なのか、
平行調を行ったり来たりする感じがとても気に入っている曲がある。
メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲、第一番の中のひとつ。
一応d-mollという銘打ちだけど、最後は長調で終わっていたり、
遊び心が溢れすぎで、愉快な一曲だと思う。


物憂気な旋律をピアニシモで弾き出すと、期待に満ちた溜め息が耳に届いた。
初めて聞かせる曲だから、どう聴いているかと、僕にも期待する気持ちがうまれるのが心地いい。
これは今こそピアニシモだけれど、最後には激情の乗ったフォルテシモになる。
一連の間にころころと切り替わるリズムに、
故意に激しく設定されているのだろう強弱の繰り返しに、
計算された緩急の極まりないシーケンスが連続すると、
そんなに、いったいなにがどうしたんだい? って尋ねたくなるような、
どことなく甘えるような、そんな曲だ。


彼女は、僕のほう、ただし目が合わない少し下方を、観察するような目で見ていた。
低音から高音まで、細かい音符で広い音域を跨ぐ曲は、
ハンマーが酷く上下して、目で追うことが困難なくらいだろうから
そこから見ていれば確かにおもしろそうだ。
曲線を描くピアノの縁に、軽く頬杖を付く彼女のまるい瞳を、
低めに立てた譜面台の、楽譜を確認するふりで盗み見る。


(いいね)


それこそ、ファイナルまで彼女が残り、ステージに上がってくるつもりなら
本番もこういうふうにしていてくれれば、
僕の音は飛躍して
ひいては天音はきっと、優勝することができると思う。
こればかりはさすがに、提案したら断わるかな。


最後の、怒濤のような16分のオクターブで、フレーズが駆け上がっていくとき、
そこはミスをしないよう、いつもはそれなりに緊張するところなのだけれど
開いた両の手の指は、不思議なほどに軽かった。



そういっそ、ミスをしてもいいんじゃないかと



そこで聴いている彼女の指まで、
一緒に弦を撫でるようにして僅かに動いているのが、
それは本当に、僕の心を躍らせる光景だ。
荒くても、粗雑でも、いまを奏でる僕の音が、
この10分にも満たない間だけでも、彼女の傍まで届いたのであれば、
もっといいのにと思った。


「すごい!」


大袈裟な拍手をする子だと思う。
けれどもそれが嬉しい僕がいる。
ほんのりと汗をかいたような鍵盤から指を離して、
少し息が上がっていたことに気が付いた。


「本当に? 良かった?」
「うんすごく!」
「そうか、ならいいんだ」


パタパタとスリッパの音をさせながら、彼女は隣へやってきた。
譜面台に手を伸ばし、出だしのページを取り上げる。
メロディーをハミングしつつ指でなぞっているのはやはりヴァイオリンのラインだ。


「掛け合いなんだね。いいなぁ私も弾きたい! 冥加さんの替わりに出ようかな!」
「魅力的な提案だけど、そこは誰の代わりになるより難しいポジションだと思うよ」
「ふふ、言ってみたかっただけ。ヴァイオリン持って来たら良かったなぁって」


楽譜を戻す彼女の腕が、僕の肩に僅かに触れた。


「あ……」


こういうときに胸が鳴るという、新鮮な驚きと共に
ずぶ濡れになって待っていた彼女を、抱きしめた時の冷たさがなくなって、
あたたかい体温を取り戻していることに、胸を撫で下ろしている僕がいる。


「いいよ、離れないで」


じっとみつめる癖がある。
癖とは思っていなかったのを、彼女がいつかそう言ったから、
これは癖なんだろうと思う。
そして彼女には、僕がこうして見つめると、黙って頷く癖がある。


「このままにしておくと、この気持ちはどう発展するのか。試してみたくならないかい?」
「……試さなくても」


どうやら、結果を彼女は知っているみたいだ。
僕は座っていて、彼女は立っていて
少しだけ上にある二の腕のすきまに、手のひらを滑り込ませて握る。
大きな服を着ているから、そうは見えなかっただけで
僕よりも細くて、そして、柔らかい腕だった。


「小日向さん」


僕の口は、そのとき何を言おうとして彼女を呼んだのか。
思案するよりも、言葉のほうが先だったことだけは確かだ。


「キスしようか」
「……実験?」
「気に入らないなら、いまだけ実験はやめてもいいよ」


けれど、それだと結果がカウント外になってしまう訳で。
どんな気持ちになったとしても、どれほど成果が得られても、
それを君は、認めるわけにはいかないと言うんだね。


「ほんとに、実験じゃない?」
「そう言ってる」
「じゃ、じゃぁ……うん」


彼女は四半分身体をこちらに向けて
椅子の上で身体を捻った僕の肩に手を置いた。


「キスする時は、目を閉じるものじゃないのかい?」


降りてくる、まっ赤になった彼女の顔に、かけた声は幾分悪戯めいた。


「だ、だって閉じたら間違っちゃう」
「僕が見ていても?」
「……わかりました」


閉じるほうが恥ずかしいのに、と、困ったように言って
彼女はその場で目を閉じる。



でも仕方ないよ



これは実験じゃないんだから。
君が教えてくれる実験じゃ、ないんだから。
ただ、僕がしたくてするキスなんだから。


そのままでは少し高い彼女の頬を、包んで僕の高さにした。
まだ重ねてはいないのに、びく、なんてするんだね。
確かに、近くて近くて、


ちゃんと目を開けていても、間違いそうだ。


間違わぬようその、小さな薄紅の焦点へ、
そっとそっと触れる瞬間、僕の瞼は閉じていた。
教わったわけでなくても、ちゃんと、そういうふうになることが、少し信じられなくて、
確かめるように一度浮かせて、改めてもう一度重ねていく。


「……ん」


ああ、やっぱり、こうなってしまうんだ。
一瞬だけ目を開けた彼女と、視線が合ったのはやはり一瞬で、
触れるときにはまた見えなくなる。


柔らかいのを、押し付けて平たく平たくしてしまいたくなる、
そのことだけで、うるさく打つ心臓はいっぱいになって
そう、確かに目を開けたままなんかにして、何かを見る余裕なんて、
少しもないのかもしれない。


「……っ、ふ」


甘い声、そう思った。
彼女が、あわせた唇のほんの僅かの隙間から、
時折漏らす声のこと。


まずいな、と思った。
それを、このまま聞いていたら、いけない気がして
朝までここに、閉じ込めておいてしまいたくなる気がして


このままでは、きっと僕は、それができてしまう。
君になら、できてしまう。


「……っ、!」


勢いをつけないと、とても離せなかった。
二の腕を掴んでいる手の、少しくい込ませるようにしている力に気付く。
何故か、すぐには目を合わせることができない気持ちだ。


「一度、見てくるよ。乾いているかもしれない」


細い身体を擦り抜けるようにして、僕はピアノを離れた。


「う、うん。おねがい、します」


ランドリーの扉を開ける時、
振り見てみた彼女は、まだ向こうを向いていた。
同じ顔のはずなのに、とてもそうは見えないから
実験にしておけば良かったと、思ってしまう。


「僕が、ヴァイオリンを持っていれば良かったね」
「…えっ?」
「さっきの曲、僕も、君と合わせてみたいと思うよ」
「じゃ、じゃぁまた……えっと、その……」


ようやく目が合ったと思ったのに、今度は口ごもる。
その気持ちが、少しだけわかる気がした。


「ふふ。また、今度は持って来てくれる?」


次に僕が見た彼女の顔は、見たこともないくらいの、嬉しそうな顔だった。
あふれる想いが、こちらにまで、感染るよ。



締めつけられるような気さえするよ。



昨日まで知らなかった気持ちを、こんなにも鮮やかなものにして、
教えてくれるのはやはりにいつも、君らしい。


ゆっくりに設定した乾燥機は、きっとまだ止まっていない。
皺になっていないのだけ確かめたら、
今日のことを、改めてちゃんと、謝らないと。
優しい彼女を濡らした雨は、そろそろ上がるのだろうから。






− la arietta con appassionato・完 −





アイスクリームやさんのイベントで、いいぞもっとやれとチャチャ入れたのは私だけじゃないはずだ!
天宮くんなら、邪気なくもっとやるかもしれないという、1%くらいの可能性にかけてました(笑
天かなの初キスは、ほんとはED後なんだろうなとは思いますが、
書いてしまったのはぜんぶあのアイスやさんの特典のせいです。そりゃ見たくもなるさ!

2010.04.25 ロココ千代田 拝