彼女を待つ間に、一曲、なにか。
いつもの時間、いつものスタジオ、
いつものピアノの屋根を半分開いて、
僕はいつものように、鍵盤に指を置いた。
なにも変わったことをしたわけじゃない。
いつものことを、いつものように、僕は、ただ。
それなのに、一つだけなにかが違う。
なにを、弾こうか。
彼女を待つのに、なにを弾こうか。
僕の指は、第一音を奏で始める前に、確実に迷ったみたいで
ピアノに向かって、指の動かない時間、その無音を
僕は初めて聴いている。
一曲、なにか、弾くのに、
僕はなにか、どうやら選ぼうとしているみたいだ。
指を一つ、押し込めば、和音でも、単音でも
どんな音だって、出すことができる楽器を前にして
弾ける曲は両手にあまるほど持っていて
どうして、不思議な気分じゃないか。
不意に、笑みがこぼれて、
正直に、指が選んだひとつの音。
その黒鍵で零した音色は、柔らかく、とても透明で、
ひとつぶ、水面へ落ちるように不確実で、
どこにでもあるEs-durのスケールが紡ぐ、
何度も弾いたことのある、その一連の曲に
僕はいま、初めて触れたような気がした。
来るなら、もう学校を出た頃かな。
今日の君は、どんな顔で扉を開くのかな。
全国コンクールのメンバーに、首尾よく選ばれたかな。
悲しい顔は見たことがないけれど、
今日の君は特に、悲しい顔をしていなければいい。
全国へ行く前に、こんなところで君が泣くようなことがあれば
僕は完全に契約違反になってしまうんだから。
なるほど、と、もう一度、
胸の奥のほうを絞るように、鮮明に込み上げる笑み。
君を待つために選んだだけあって、曲に乗るきもちは
やっぱり君のことばかりだ。
そう、何やら、実験めいている。
少なくとも、この曲は彼女に似合う、
いや、彼女を思い浮かべているいまの僕に似合う、確実に。
彼女はここにいないけれど、彼女の顔が浮かぶんだから
少なくとも、この実験は失敗でない。
仮に、この音が、彼女の耳にも届くなら
彼女は、どんなふうに聞くだろう。
聞こえるはずのないもの、けれど、聞こえたって、
僕は不思議だなんて思わない。
だから
へんな子だなんて言って笑ったりしないから
もしも聞こえていたら、聞こえたって、
もしもこれから先、僕が尋ねることがあったなら、そのときは正直に教えて欲しい。
だから早く、来るといいよ。
スタジオの予約時間が、過ぎてしまう前に。
僕の名前でとっている、いつものこの場所に。
まだ、夜ではないというのに
僕のこころが選んだ曲は、夜の名前がついていた。
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